結晶の中で眠る
開口一番、審神者は重苦しい声で告げた。
「政府から通達です。最近、刀剣コレクターを名乗る輩の刀剣男士拉致監禁事件が多発していると」
息を呑む。なんと不届きな輩も居たものだ。同田貫は、本日の近侍として審神者を仰いだ。
「偶然顔見知りの審神者の所でも先日、とある男士が忽然と消えたらしいのです。未だ行方不明で、政府に掛け合っても被害があちこちで上がっているらしく、手が回らないのだと。知り合いの審神者の所では太刀が居なくなったそうですが、練度や刀種に関係なく被害が出ているそうです。暫く少人数での遠征や出陣は控えようと思うのですが、同田貫はどう思いますか?」
「……そうだな、俺もその方がいいと思うぜ」
「あの方の太刀の事も気掛かりですが、我々審神者は他本丸への干渉を禁じられておりますので……無事に帰ってくる事を祈りましょう。今は彼と近しい者が捜索しているそうですよ」
「そうか。……見つかると良いな」
「ええ」
嘆息する審神者の表情は付けた面紗の影になり分からない。声色は心から心配しているようで、他人事ではない報せに胸騒ぎを覚える。虫の知らせという奴か、本丸に遠征部隊の帰還を知らせる鐘が鳴り、複数の足音が近付いてくる。
「主君! 大変です……!!」
緊迫した前田の声、背後には泣き出しそうな五虎退と子虎、それを支える鯰尾と小夜左文字が、皆一様に不安げな貌を覗かせていた。
「どうした」
「山伏さんが……!」
言われてみれば高々と笑う太刀の姿が無い。練度を均等に上げる審神者は、山伏に部隊長を任せ、短刀や脇差と遠征に出させていた。
「山伏がどうしたのです、怪我でもしてしまいましたか」
「っ僕らを……庇ってぇ……うぇっ」
「殺気は無かった。あなたと似た匂いをしていた」
「最初、商人の格好をして話しかけて来たんです。五虎退と小夜が抱えられて、僕と山伏が追ったんですが……」
ある者は震えながら、ある者は顔を青ざめ、口々に報告する。立ち上がりかけた中腰の姿勢のまま、同田貫は無意識に息を詰め話を聞いていた。先程の審神者の言葉が脳裏をよぎる。
「山伏さんが何か叫んだ後、商人の姿をした者も、山伏さんも、消えてしまいました」
一番練度の低い前田が、震える手を隠し気丈に報告する。静かに聞いていた審神者を、同田貫が見下ろす。
「……鯰尾、皆を休ませてあげなさい。饅頭が残っていたから分けて食べなさい、今日はもう休みです、午後の出陣は無しで、それから誰か、こんのすけを呼んできて下さい。政府へ届け出を出します」
「は、はい……」
「前田、五虎退、小夜、鯰尾。皆、よく無事に帰還し、伝えてくれましたね。山伏は絶対に帰ってきます。大丈夫、さぁ、行ってください」
短刀達が表情を和らげる。暖かい手が、順番に頭を撫でた。ぺこりと、幾分か落ち着いた遠征部隊が部屋を後にする。
同田貫、と、審神者が囁く。視線だけを向ければ、腕を組み、考える仕草をしていた。
「男士を攫い、それからどうするのでしょう。刀剣を振るう彼らは付喪神であり、それ以上でもそれ以下でも無い。審神者以外に従わぬ者も多いのに……しかし考えてばかりでこちらから動けないというのも、お役所仕事の非合理性を露呈させますね」
同田貫、ともう一度、審神者は強く呼んだ。今度は返事を返した。
「山伏を、連れ帰って下さい。あの子達のためにも……刀剣男士は数居れど、我が本丸の山伏国広はあのただ一振りなのですから」
「ああ。勿論だ」
照れた様にはにかみ笑う情人の太刀を想う。紆余曲折を経て、恋仲になった山伏とは未だ床を共にしておらず、触れるだけの口吸いを数度行った程度。我ながら臆病だと思うが、恋仲になるまでが長かったのだから、ゆっくり関係を築こうとしていた。そんな矢先、同田貫と山伏を引き裂いたのは、誰とも知らぬ輩だった。
意識が覚醒する。薄暗く、息苦しかった。躰は奇妙に重く、動かし辛い。淀んだ空気が満ちている。起き上がろうとし、両腕を後ろ手に縛り上げられている事に気付いた。軋む縄は躰を捩っても弛まず、肩を支えに額を擦り付け無理矢理起き上がる。蔵の様で、葛籠や岡持、箪笥が整然と並べられており、至る所に乱雑に、何か棒状のものを包んだ包みが転がっていた。
「……?」
ふと見上げそのまま固まった。蒼白く光を放つ巨大な結晶が、とりわけ異彩を放っている、その中に何かがいた。
「美しいだろう?」
「!?」
突然聞こえた男の声に背後を振り返る。くつくつと喉奥で嗤う壮年の人間。先程短刀を攫おうとした輩であった。黒の単衣に羽織を纏い、その羽織は何か呪いでも施されているのか、視線を削がれ直視し難い。気付かずに程近くまで来ていた男が山伏の顎を捕らえる。痺れが全身を襲い、熱を孕んだ吐息が溢れた。乱暴に首を動かされ、結晶を見上げる。
「見えるか? 結晶結界だ」
瞳を眇め、そして山伏は気付いてしまった。己と本性を同じとする分霊が、結界に囚われていることに。青碧の髪は長く川の様に波打ち、赤い双眸は閉ざされ純白の単衣からは躰を覆う赫灼が透けている。憂う横貌は嘗て美術品であったそれである。青白い肌を漆黒の蛇が蠢いていた。
「おぬしは……何ゆえ、斯様な事を」
「お前ら刀剣男士は高く売れるからな。俺も昔は真っ当な審神者だったが、この商売を始めたらもうあんなまどろっこしい事はしたくなくなったんでね」
舌も上手く回らない、男の手も振り解けず、品定めをするかの様に見下ろす視線から逃れるべく、山伏は辺りを窺う。出口はどこだと、空気の逃げ道を探れど、意識が覚束無いままで集中が切れてしまう。
「繊細で傷つきやすい奴らを好んだり、レア度の高い連中を侍らせたがるのも多いが、俺はお前ら専属なんだ。案外儲かってるんだぜ? 壊れにくいしな」
「……その薄汚い手を退けろ、人間」
「そんな口聞いていいのか?」
男が力任せに鳩尾を蹴り上げた。一瞬息が止まり、せり上がる吐気に咳き込んだ。地べたに這い蹲り、縛られたままでは拭う事すらできない血混じりの涎を吐き出し男を睨み上げる。
「お前一人が俺に反抗すれば、この蔵のお前ら全てを折ると言ったら、どうする?」
「戯言を……!」
「簡単さ、お前は良く落ちるから快く売っぱらう奴も多い。俺を傷付けてみれば分かるだろうよ」
視線を向けるもこちらを見下ろす男がどんな貌かを窺う事は叶わず、ふいにずしりと躰を支えられない程の重みが伸し掛かる。視界から男が消え、引敷に手が掛けられ、帯の緩むのを感じた。無骨な指が太腿を明らかな目的を持ち蠢いて、片方の手が下腹部へ伸びるのに気付き怖気立つのが分かった。ようやっと、己がこれからこの下衆に何をされるのかを初めて理解した。震えそうになる躰を叱咤し、僅かに動く身を捩り男の横顔を捉える。下卑た笑みを浮かべ、喉奥でくつくつと嗤う男が山伏を視ればそれだけで正常な意識が削がれる気がした。
「っ……! や、やめろ……!」
「ほう、お前は俺が何する気なのか分かるのか。お前……恋仲の相手がいるな?」
「!!」
にんまりと弧を描く男の笑顔が恐ろしい。隠しきれない震えが、恐怖が引き結ばれた唇を震わせた。
「分かるんだよ、その眼……山伏国広は大抵はどういう用途で使われるか理解していない、練度一の連中等な。そういうのは調教も容易過ぎてつまらん、かと言ってそこの結晶のみたく泣き叫んでばかりだとうっかり壊しちまう。だから観賞用にする」
平然と言い放つ男の声は到底常人の思考とは思えず、理解に苦しい。理解したくない、といったほうがよかった。本意が見えない、尋常ではない事だけを理解した。
「だがお前は、嗚呼……良い目をしている。やり甲斐がありそうだ、じっくり、時間を掛けて仕上げてやろう……この時空は特殊でな、外界での一日はこちらでの一週間程なんだ……」
顔を引き寄せられ身を強張らせ、無意識に呼吸を止めその赤い瞳を見開いて昏い笑みを映し出し、男の残酷な声を聴いた。これから己に与えられる一切を拒みたかった。熱を孕んだ吐息を吹きかけられながら、怒りで男を射殺せない事を憎んだ。脳裏に浮かんだのは、愛しい男の微笑みだった。
山伏は見つかる事なく、十日以上の月日が経過してしまった。同田貫は焦るばかりで大した収穫もない日々を鬱々と過ごした。普段通りの本丸でただ一振りの太刀がいないだけで、こんなにも世界は暗く詰まらないものだとは、知らなかったし知りたくもなかった。拙いながらも報告書を片手に審神者に目通りを願い、先客の後ろ姿に足を止める。外套がたなびき、前田が振り返り寂しげに微笑んだ。
「……前田、水羊羹がありますから、皆で食べなさい。遠征ご苦労様」
「はい。……失礼します」
「……」
すれ違いざま、帽子を外した頭を撫でてやる。驚いた顔でほんのりと顔に朱を帯び、二つの感情の入り混じった笑みで恥ずかしそうに走り去る。沈黙が訪れた部屋で、先に口を開いたのは主人の方だった。
「悪い知らせと良い知らせがあります。どちらから聞きたいですか?」
「……悪い方から」
「やっと被害届が受理されましたが、刀剣に人権はないと盗品扱い。それに心無い審神者などは盗難に遭ってもまた入手できると被害届すら出さないらしく、政府が動くのはいつになるか……で、良い知らせですが」
一旦口を閉ざし、審神者が俯く。たっぷりと焦らし、思わず詰め寄っていた同田貫の近付いた顔を見上げ、口が開かれた。
「報告書と目撃証言を照らし合わせ、潜伏場所の目処が立ちました。時空移転の準備は整っています、第一部隊の帰還まで時間がありますが、同田貫、どうしますか」
昂ぶる気を抑え、低く唸る。練度の高い大太刀を中心とした部隊は遠く阿津賀志山へ出陣していて、何時もならば夜半に帰還する筈だ。心強い者達だが、一刻も早く敵地へ乗り込みたいと精一杯抑えた声で伝えると、力強く頷き返す主人も最初からそのつもりだったようで、後手に時空の歪みを生成しながら言った。向こう側は闇で何も見えない。なんの匂いもなかったが、同田貫は主人を信じ、単身飛び込んだ。
「後から必ず向かいます、無理はせぬよう。同田貫まで失いたくはないのです」
「分かってるよ、俺は折れねぇ」
不安定に沈む錯覚のする足場を見ず、ひたすら前へ進む。やがて乾いた土を踏みしめ、立ち止まり辺りを窺う。淀みと、何か無理矢理に歪められたのか奇妙な風景が飛び込んできた。気配を殺し、殺気を本体に抑え込み神経を研ぎ澄ませる。
その時、微かな気配を察知した。恐らくあちらも気付いているだろう、同田貫はきつく本体を握り込んだ。砂利の音が、二つ。現れた影は、見知った者と酷似していた。纏う雰囲気だけが違っている。互いに敵ではないと判断し、ほぼ同時に戦闘態勢を解き歩み寄る。襤褸布が生温い風に乗った。
「……山姥切国広か?」
「同田貫正国か。別の審神者の刀剣だな」
低音が紡がれ、視線が交わる。山姥切国広。同じ打刀だが、練度は恐らくこの青年の方が上だろう。会話の最中も辺りを探るのか、一度だけ合わさった後は視線を寄越される事も無く、目深に被った布から覗く緑青は薄闇でも煌めいていた。
「別の、ってことは……お前も誰かを捜してんのか」
「……俺は兄弟を捜している」
「そうか。お前の所のあいつも攫われたのか」
見開かれた緑青が同田貫を見た。堀川派はあいつを入れて三振りだが、確信があった。一週間前、主人の零していた知り合いの審神者の者だろう。
「山姥切国広、提案があるんだが、取り戻したい相手が一緒なら、一つ手を組もうじゃねぇか。独りより心強いだろう」
「……成る程。敵の敵は味方か。良いだろう」
「なんの話だ?」
「あんたには関係無い。急ぐぞ。兄弟の気配が近い」
青年の本体が軋んだ音を立てた。隠す気の無い憎悪の籠った殺気が、暗闇で見え無い前方へ向けられていた。
荒野に立つ東屋は見張りも無く、とても人の住む様に見えなかった。一歩足を踏み入れれば、呪いか何かか、辛うじて夜目の利く程度の暗がりが拡がっている。闇に浮かぶ緑青と目配せをし二手に別れた。慎重に摺り足で暗闇を進み、微かな、残り香の様な気配を頼りに進んでいけば、異様な光景を見固まった。
乱雑に置かれた刀剣は全て、ある一振りのものだ。己の探し続けた者の本体が、顕現される事無く散らばっている。抜き身のまま放置され錆の浮かぶものや、無残に折れた残骸もある。違う、己の辿る気配は未だ生きている、折れてはいない。無意識に飲み込んだのは最悪の予感だ。無理矢理に視線を外し、深く息を吐いた。兎に角、前に進むしか無い。
「山伏……」
強く握り込んだ刀身が震えた。前方に見えた光に自然と足を早め、身を横たえた情人を見つけた。
「山伏! おい、起きろ山伏……!」
地の凍える様な笑い声が背後に轟いた。振り向きざま解き放った刀身に照らされ、一人の人間が壁に凭れ掛かり嗤っている。
「取り戻しに来るとは、中々殊勝な男だったんだなぁ、同田貫」
「……お前は誰だ、人間が何故こんな場所にいる? 何故俺が見えるんだ」
「俺も、お前らを使役していた側の人間だって事だ。よくここがわかったな?」
男は昏く窪んだ瞳の奥でなおも愉しげに嗤っている。余裕ぶった口振りから行きずりの仲間は見つからずにいる様だ。山伏の肩を抱きながら、男から隠す様に晒された青碧を抱え込む。
「こいつに何をした……何故こいつばかり集めている?!」
「言葉で説明するより、直接見た方が早いんじゃねぇか? だろう、《山伏、来い》」
閉じていた双眸がゆっくりと開き、ふらりと立ち上がる。生気の感じられない肌はまるで陶器で、滑る様に男へ歩み、そのまま男へ頬を寄せた。信じられないと言う顔で男を凝視する同田貫を見、男が高々に笑った。
「……」
一瞬の戸惑いもなく、纏った単衣を解き素肌を晒し、山伏が蹲って男の一物へ口を寄せる。淫靡な水音を響かせ口と両手を使い口淫する情人を、ただ呆然と見つめる。眼前で繰り広げられる光景から眼を背けたくとも、鉛の様に躰が重く瞬きも忘れ魅入っていた。口を窄め深々と剛直を咥え込む横顔が、異様な行為が表情一つ変えず行われるのはただただ信じ難く、時折漏れるくぐもった声が、耳から脳を侵してゆく。
「ん、ぢゅ、んう……」
「少しばかり遅過ぎたなぁ、三ヶ月間じっくり教え込んだつもりだがどうだ、興奮するだろう? こいつの反応だとまだ躰を重ねてなかった様だが、助けに来といてそんなおっ勃てて、お前も最低だな」
「ッ……!」
服の上からでも分かる程、自身がその存在を主張していた。言い返せない。怒りと、様々な感情が渦巻いている。歪められた時空は外界と隔たれ、この時空においては大きく時間の経過を遅らせていたらしい。色付いた焔が、赤く染まる肌が眼に焼付く。男は胸を弄り無遠慮に赤い頂を摘み、蹲う山伏が身を震わせた。
「こいつも最初の数週は気丈に振る舞っていたさ、山伏の精神力の強さは昔俺も憧れたもんだ。だが俺はそんな高潔な修験者サマを悦楽に堕とすのが一等好きでねぇ」
楽しかったなぁとひとりごちる男は顔色一つ変えず、水音の合間に山伏の声が混じり、新たに加わった音は男が山伏の自身を己の足で愛撫するものと気付く。
「んっ……んぐ、ぉ……」
「安心していい」
「ぁ、っ」
男が山伏の手を引き、胡座に腰掛けさせた。同田貫を正面から見据える山伏の瞳は暗く翳りを帯び、先走りの垂れる自身へ男が手を伸ばし片方は犬歯の覗く口へ差し込み、待ち望んだ様に指を唾液で濡らす表情の変わらない相貌に、背筋を這う何かを感じた。
「ここは、未だ無事だ。それも明日売られちまえばすぐ上客専用になるだろう」
「あっ……!」
一際大きく音を立て、男の指が複数挿れられる。菊座から垂れる液体すら見え、男は乱暴に赤い頂を押し潰し、捏ねくり回して嬲り、同田貫へ見せつける様に耳朶を舐られ、山伏の表情にも変化が見られた。朱殷を潤ませ、時折引き攣った甲高い声が漏れ出した。投げ出された指が痙攣し、割り開いた足の爪先が丸まり、鍛え上げられた肉体を上下させ荒い吐息を繰り返している。
「ん、ん……っふ、ぅ」
「ただどうしても声だけは抑えやがるんだよな、限界があるって事だな。ちなみに尻だけで、乳首だけでイケるんだぜ」
「! っんあっ! そ、こはぁ、ひ、ぃあァッ!?」
生唾を飲み込んだ。あられもない痴態を晒し善がる恋人の姿は酷く煽情的で、切なげに歪む顔はやはり美しかった。
「あ、あっ! ……ぃ、あ!!」
甲高い嬌声が歯列の間から漏れ、白濁が自身から放たれた。満足そうに嗤った男の一瞬の隙を突き、鞘から抜かず刀身を振りかぶる。後頭部を殴り付け、叫ぶ暇もなく人間は昏倒し地に倒れた。支えの失せ倒れこむ山伏の肩を抱き締める。腕の中の情人は焦点の合わない朱殷を同田貫へ向け、近付く顔を見据えている。
「山伏……済まなかった、許してくれ……」
濡れた唇にゆっくりと唇を押し付ける。途端見開いた赤が瞬き、押し返す腕の強さを感じた。
「ど、たぬき、どの……?」
「山伏……!」
「駄、目だ、同田貫殿っ……離れられい、拙僧は……穢れてしまった……!」
弱々しく押し返す腕は震えていた。目尻に涙を浮かべ、余りに哀しく微笑む山伏を強く掻き抱いた。
「お前が無事で良かった……」
無事ではないと己の内なる声が叫ぶ。心も躰も酷く傷つき、魂が消耗されている。一刻も早く審神者の元へ連れ帰り手入れをせねばと囁く声を、山伏がやんわりと止める。
「拙僧は穢れてしまった、おぬしとは還れぬ……主に刀解してもらおうと思う……次の拙僧を捜してはくれぬか」
「何言ってんだ! 俺は……お前だから、す、好いたんだ! 代わりなんていねぇよ!」
「同田貫殿……おぬしは優しいな。しかし此度の失態、到底許されるものではっ……!」
続く山伏の言葉ごと口を奪い飲み込む。最初こそ身を捩っていたが深い口吸いに変わると次第に目も潤み、押し退けるためではなく縋るために背に腕が伸びた。薄暗い中でも輝く金が獣の色を帯びるのが分かり、山伏は霞みがかった思考で逃れられない事を悟り同田貫へ身を寄せた。
壁に手を付き暗闇を進む男は舌打ちを漏らす。
「くっそ……容赦ねぇ、同田貫め……」
最低限の荷を抱え、逃亡の為に人間は手探りで出口を探す。無理矢理歪めた時空は入り組んで迷路の様で、脳震盪を起こした頭は未だ襲う眩暈で視界は頗る悪く、視界の端で動いた浮かび上がる白い布にも人間が気づく事はなかった。
「俺の兄弟に何をした、人間よ」
「!?」
まさかもう一人潜伏していようとは夢にも思わず、首元に突き付けられた国広の傑作と名高い一振りと見下ろす鮮やかな緑青をただ見る。青年は地を這う様な低音でもう一度人間、と囁く。隣の青碧を靡かせる太刀は弟刀の腕を弱々しく掴んでいた。先程の山伏よりも、この結晶結界に閉じ込めた山伏は行為に全力で抵抗した。幾度も閨を共にした相手がいると思ったがよもや兄弟刀であったとは。
「……俺も落ちたもんだ」
初めは純粋な好意であった筈だ。色褪せた遠い思い出はもう随分と昔であった気がするし、ごく最近であった気もした。記憶の残滓の中微笑み名を呼ぶ眩い笑顔は、最初に破壊してしまった、もっとも美しく笑う太刀であったと想いを馳せた。冷たい二対の瞳に見下ろされ、かつて審神者と呼ばれた人間は静かに項垂れた。