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あるいはめざめ

 

 山伏国広は我が本丸の近侍である。太刀の付喪神として顕現した青年はとかく賑やかで、何事にも全力をもって取り組んでおり、率先して皆を焚きつける。日課の朝礼会議以外は男士達と極力接触を避ける審神者にとって、近侍からの報告が彼らとの関係の大事な繋がりとなっている。古参でもある山伏は他の男士達からの要望があれば進んで聞き入れ、主に報告をする。笑い声が多少障るが、良く出来た男だと信頼を寄せていた。

「主殿?」

 意志の強さを表すような小粒の瞳がこちらを見上げている。線の細い所謂優男の多い本丸で珍しい上背のある体躯は成る程日々修行だ筋肉だという発言に見合った逞しい力強さに満ちている。しかし例えば躰の小さい短刀といえど人を殺めるために作られた凶器だ、並の人間よりも遙かに力は強い。それに、と書類に筆を走らせる手を止めず思考する。近侍として常に側に置くことで彼の望みである山籠もりへの許可を出せない代わりにと、本丸のすぐ裏に広々とした道場を作り上げたのは他ならぬ審神者だ。皆も使うといいと伝えれば、健康優良児の姿で喚ばれた男士達は顔を輝かせた。内番の手合わせで使われていた道場では日に数組しか使用することが出来ず、徐々に刀剣の数も増えつつあった本丸では早速溜まり場となっていた。

「何やら嬉しそうであるな」

「……気のせいだ」

 鋭い犬歯を覗かせ、山伏が破顔した。胡座を掻き古い時代の兵法の指南書を読んでいる。索敵の低いのを気にしてか、最近倉から良く拝借しては瞑想の合間に読んでいる様だ。得手不得手もあるだろうと言っても聞かない所は初期刀や池田屋への部隊長である兄弟刀とよく似ている。それにこの太刀が直向きに取り組む姿勢がとても気に入っていたので、将棋の相手を頼む傍ら戦術についての談義の時間を増やした。夜戦や屋内、地下であろうと遡行軍は立ちはだかる。いつからか検非違使という第三勢力まで現れ、気の休まる暇はない。とは言っても、資源や札は潤滑し、表立った任務も無い本丸ではここ数か月二軍以下の遠征が主であったが。

「久しぶりに、おまえに休暇をやろうと思うんだが」

「珍しいな、半日だけ等と言うのであろう?」

「これからは暫く低練度の奴らの底上げだ。期間は七日間、勿論内番や連絡係もなしだ」

「……誠であるか?」

「俺はどんだけ信用が無ぇんだ」

 本丸随一の高練度である山伏は四つある部隊を束ねる部隊長として既に本丸には欠かせない存在だ。審神者を、男士達を知り尽くしており、審神者自身も頼りっぱなしにしていた自覚はある。

「たまにはゆっくり羽を伸ばしてこい。まあ、おまえは修行するんだろうが」

「カカカ、拙僧を良く分かっておられるな」

 見上げてくる瞳に微かに宿った高揚感が分かる。近侍は咳払いをすると佇まいを正し背を伸ばし膝を付いた。淀み無く存外心地良い低音が鼓膜を擽る。普段より抑えた声に隠し切れない嬉しさが滲んでおり、つられてこちらの顔も緩む。

「有り難う、主殿」

 宝冠の裾がはらりと整った顔に陰を形作る。そのまま勢い良く立ち上がると、もう一度ありがとうと深く礼を寄越し、近侍交代の旨を伝えるべく部屋を出ていった。

「あいつはあんなに分かりやすかったかな」

 溜息を吐き独りごちる。暑苦しい奴が居なくなるのは珍しくもあり、なんだか残念な気さえした。

 翌日朝早く簡単な荷造りを終え、足取り軽く山伏は出かけていった。遠征で山へ出向くときもあるが、資材を持ち帰る目的があるのと無いのでは違う。眩しい笑顔を見送り、開いた時空の扉を閉じると審神者は何とはなしに空を見上げた。異次元空間に居を置く本丸の天候は気分次第で春にも冬にも出来る。ぽっかりと浮かんだ雲はゆったりと流れ、太陽はまっすぐ降り注いでいた。静かな朝だ。

「何だ大将、随分寂しそうだな」

「寂しくなんてねぇよ」

「山伏の旦那がいないとつまらねぇって顔してるぜ」

 大人びた顔立ちの短刀がにやついた顔で呟く。子供に見えても、彼らは皆審神者の何倍も年上だ。取り分け他人の機微に聡い薬研にはお見通しというわけだ。何故だか無性に悔しくて乱暴に頭を撫でつければ、青いねぇと笑われた。聞かなかったことにする。

「旦那は頼りになるからな」

 まぁ、大将はそれだけじゃないんだろうがな。薬研の声が、背にちくちくと刺さる。調子が出ない。自分から送り出したというのに、あの喧噪が早くも懐かしくなってくる。大体、山伏は言うほど煩くはない。どちらかというと態と喧しく振る舞っているように見受けられる。冷静に戦況を判断出来、驕ることもなく、寧ろ過小評価している気すらする。必要以上に卑下するのは感心しない、誉れ泥棒がなにを言うか。ぶすっと機嫌悪く部屋へ去る背に一抹の寂しさの滲むのを見、薬研は口角の端を僅かに上げ笑んだ。

「どっちも鈍くて意固地だと、見てるこっちがやきもきするんだな」

 やれやれと肩を上げる短刀はそれでもどこか楽しげだった。

 

「あんた、聞いてんのか」

 眉間に深く皺を寄せた同田貫が不機嫌を露わに声を投げかける。審神者は遠征帰りの第二部隊長の射抜く様な視線も受け流し、心ここにあらずと言った調子で資源の報告書に署名した。近侍代行の薬研は未来の医学書を紐解き感心しながら熟読しつつ、上の空の主を横目で眺めた。何て分かりやすい人間だろうか。数文字筆を進めては開け放たれた襖から覗く秋の空を眺め、溜息を吐いている。誰を想っているのかなど、筒抜けだ。

「山伏の野郎、よく主を置いて山に行けたよな」

 厠に行くと覚束ない足取りで部屋を出た隙に、同田貫が薬研に顔を突き合わせた。意地の悪い笑みを浮かべる打刀を諫める。

「大将はあれでバレてないつもりなんだ、俺たちは何も出来ねぇ」

「山伏の方に応える気はあるのかねぇ」

「……旦那随分楽しそうだが、気になるのかい?」

「奴ぁ良くやってる。俺も奴にゃあ何度も助けられてるし相談に乗ってもらった。俺ぁ色恋なんざ分からねぇが、手助けはしてやりたいんだ」

「奇遇だな、俺っちもだぜ」

 山伏は本心を出さない。単純そうに見えて、あの笑顔で何もかも覆い隠してしまう。それでも審神者の前でのあの青年は随分自然体だ。審神者とは付喪神の契約で成り立っているが、二人の間には確かに信頼という強い結びつきが存在しているのが分かる。

「数日居ないだけであそこまで腑抜けになっちまうとは」

 縁側を踏み外し中庭を転がるのを獅子王に笑われ、藤四郎の兄弟に助け起こされるのを遠目に見つつ、想定外だったと薬研は呟く。

「物は相談なんだがな。お前、一つ俺と賭けをしねぇか」

 月の輝きに似た双眸が弧を描く。戦以外だと鍛錬か食事くらいにしか興味を向けない同田貫が話を、それも賭け事を持ちかけるのも珍しいと薬研は本を閉じ、躰ごと意識を傾ける。

「賭け?」

「主と山伏、どちらが先に仕掛けるか」

「なんだそりゃ」

「お前も古参だろうが、山伏が主をどう思っているかくらい分かるだろ」

「……大将程あからさまじゃないけどな」

「ハハ、違いねぇ」

 どこか楽しそうな同田貫に、薬研も乗ることにした。内容はこうだ。期日の夕刻山伏が帰還後、それぞれへふっかけてみる。同田貫は山伏が、審神者には薬研が。こっそりと反応を伺い、けしかけた方に付いたものが数日間負けた方へ言うことを聞かせられる。同田貫は薬研に自分の嫌いな内番を押しつけてやると豪語した。

「山伏の旦那がそう簡単に動くかねぇ?」

 何せ相当な頑固者だ。その上修験者として強く発現した為に、己を律することに長けている。

「俺にはとっておきの秘策があるんだ」

 覚悟しとけと吐き捨て、上機嫌な同田貫が部屋を出ていった。程なくして山伏の向かった時代へ扉を繋げたいと戻ってきた同田貫は、なにやら荷物を抱えている。いつも割れた兜を自慢げに抱えるが、それとは違うようだ。

「帰還したらとは言ったが、その前に会わないとは言ってねぇ」

「……旦那ぁ賭事は嫌いだろうから、せいぜいバレねぇようにな」

「ったりめぇだ」

 鼻歌でも歌い出しそうな打刀は山伏を追い時空の扉を進んで行った。残された薬研の元へやっと審神者が戻ってくる。厠に行ってくると言ったのに上等な着物は何故かぼろぼろだ。

「大将は本当に旦那が居ないとだめだな」

「んな……何言ってる、あいつがいなくたって俺は平気だ」

 空元気が痛ましい。窶れた気さえし、重症だな、と声に出さず呟いた。

「所で大将。山伏の旦那のことなんだが」

 胸中を占めているだろう男の名を聞き、審神者が派手に机に額を打ち付け、思わず立ち上がる。主は激痛にか肩が震え、突っ伏したままだ。

「お、おい大将? 大丈夫か?」

「……山伏がどうした」

「旦那が帰還するのはまだ先だろう。それまであんたが持つのか俺は心配なんだ」

 まだ先かと頼り無い声に、やれやれと首を振る。目に見えて気力も衰え、いつもは澄み切っているはずの霊力に翳りを感じた。たった数日でこれとは、改めてあの近侍のもたらす影響を実感した。賭けの結果がどうあれ、山伏にはまた暫くは主の傍に居てもらわねばなるまい。同田貫も薬研も、二人がくっつかない可能性もあるというのを全く考慮していない。

「俺には旦那の代わりは無理だ。この本丸の誰も、大将を支えられるのは旦那だけ」

 ブラコンと名高い兄弟刀も頷くだろう。薬研は確信を持って告げた。

「旦那のことを好いているんだろう、大将」

「…………!?」

 審神者は人間で言うところの十九歳。昔で言えば元服を済ませた年齢で妻を娶っていてもおかしくない頃だが主の時代ではまだまだ十九と言えばやんちゃ盛り。真っ赤になり羞恥と怒りで筆舌しがたい表情の主が声を荒げた。

「っに言ってやがる、俺はーー……!」

「自覚してなかったのかよ大将、さては童貞か」

「それとこれとは関係ないだろ!?」

「図星だな」

「薬研!!」

 カッと目を剥いた審神者を片手で制する。勢いを殺され、訝しむ顔つきはいくらか落ち着きを取り戻しかけていた。

「で、どうなんだ大将。俺たちは付喪神だぜ」

「……そうだな」

「寿命があるあんたら人間は脆く、弱い」

「分かってるさ」

 そうだ。審神者は俯いたまま、近侍の笑顔を脳裏に思い描いた。三日と経たず、己がどれだけあの太刀を頼り、心を寄せていたのか厭と言うほど痛感させられた。信頼関係以上の感情を向けていた。

「白状する。俺は腹を決めた。あいつが、山伏が好きだ」

 知っていたとは薬研は言わない。己の内に渦巻く感情を受け止めた主の顔は打って変わって晴れやかで、頼り甲斐のある表情となっていた。

「よっ大将! おっとこまえ!」

「茶化すなよ」

 さて。薬研は思索を重ねる。山伏が帰還したところで、この男は己から告白するなど出来るだろうか。真っ赤な顔で挙動不審に近付き、不振がられるのが関の山な気がする。それでは自信ありげに出て行った同田貫の方に部があるだろう。薬研としては、体のいい実験台が欲しかったところなのでこのままむざむざ負けるわけにもいかない。

「しかしな大将、山伏の旦那はどうなんだろうな?」

 ひくりと眉と口角が歪む。山伏は分かりにくいし審神者は感づいていないだろうと踏んで言葉でふっかけてみる。

「同田貫の旦那に先を越されるかもな?」

「何?」

「山へまで追っかけちまうような奴だしな、旦那達仲良いんだぜ」

 共に鍛錬をする二人は本丸内でも見かけていたし、近侍から話も良く聞いていた。あり得ない話ではない。

(悪いな旦那、ちっと利用させてもらうぜ)

 肩へ手を置くと含み笑いを混ぜつつ小声で囁く。少年にしては低めの声が、大人びた表情や言動に更に寄る。

「しかし大将、男に二言はない。今呼び戻せば、旦那ぁあんたを恨むだろうな」

 勝手に想像しているのか、審神者の顔が赤くなったり青くなったり、百面相の様で見ていて飽きない。噴き出しそうになるのを必死に抑え、演技派の薬研は熱っぽく言った。

「同田貫の旦那もなかなかの硬派だ。いきなり強いることはしないだろうさ。ただ、うかうかしてると掠め取られるぜ?」

 押し黙った主を労う様に肩を撫でる。心配している顔の裏では笑いを堪えているというのに、律儀にありがとうと返す男は深く溜め息を吐く。

「良いことを教えようか、大将」

 腕を組み、笑みながら指を唇に添える。気付いてしまった情愛を持て余した年若い男が素直に耳を傾けている。心底楽しくて、山伏へけしかける罪悪感など吹き飛んでしまった。我ながら非道であるが、互いに想い合う者を引き裂くわけではないのだ。鵲にでもなった気分で、態とらしく耳打ちする。

「山伏の旦那は時間いっぱいを使って修行してくるだろう、体力には自信がある旦那だって帰還する頃にはへとへとに疲弊しているはずだ。気孔ってのがあるんだが、額の真ん中、眉間の直ぐ上。そこは疲労の蓄積した筋肉を弛緩させるツボだ。旦那は弱みを見せたがらない。すぐ近侍を交代したがるだろうが、大将はたまには労ってやったらどうだい?」

 肩でも足でも揉んでやればいい、と背を叩く。あまりがっつかせすぎると疑われる。勢いづかせ、かつ自然に事が運ぶ様に。

「成る程」

 素直に聞き入れた青年は、先程までの駄目っぷりが嘘の様にてきぱきと事務仕事へ取りかかり始めた。期日の夕刻まで、立派に仕事を成そうと決めたらしい。殊勝なことだ。審神者のこういう部分は皆の認めるところであり、文句を吐きつつも真面目な男の長所であると、傍らで見守った。

 さて、どうなることやら。薬研は楽しそうに笑みを浮かべると再び医学書を開いた。

 

 夕刻。重厚な鐘の音と共に、時空の扉が開かれた。七日間とはいえ山籠もりを終えた山伏と、少し遅れて同田貫が帰陣する。

「よぉ旦那、おかえり」

「カカカ! 薬研殿、ただいまである!」

 宝冠を取り手拭いにし、無精髭を生やした山伏がいつもの様に笑う。髪は僅かだが伸び、ぼさぼさだ。距離を置く同田貫へ手を挙げれば、素っ気なく手を振り返される。

「成果はどうだった?」

 胸を張り、上々だと告げた山伏がふと辺りを見渡す。

「主殿は居らぬのか?」

「大将ならもうすぐ来るぜ。あ、おい旦那、どこにーー」

「こんな格好を見つかっては笑われてしまう」

 声を潜め、背を縮こませ湯殿へ行くと足早に去ってしまった。残された同田貫を見上げれば溜め息と共に間延びした声で告げられる。

「迂闊だった。俺を見つけるやいなや無理矢理修行に同行させられちまった」

 関節を鳴らしながら疲れたぜと嘆く。どうやらこちらは芳しくなかった様だ。

「脈はあるんだがな。身持ちが堅い野郎だぜ全く」

 持って行った荷を見せてもらう。手紙だろうか。筆跡はどれも同じだ。

「倉で昼寝してたら見つけちまったんだ。主の現世の親御サンへの文何だが、そりゃもう見てるこっちがこっぱずかしくなる山伏の誉めっぷり、俺でも惚れてんなって分からぁ」

 黙って持って行ったわけか。文を書いても現世へ送られる際の変換方法では現物は残ると言っていたことがあったが、報告書と同じく整理し取って置いてあるのはマメだなと薬研は感心した。

「旦那は読まなかったんだな」

「突き返されたよ。心を覗くみてぇで嫌なんだと」

 週に二度は書いている様だし、日記代わりなのだろう。

「……そっちはどうだったんだよ」

「ああ。上々だ」

「ちっ……」

 つまらなそうに同田貫が頭を掻く。どうやら賭けは薬研の勝ちとなりそうだ。様子を見に行くかと聞かれ、緩く首を振る。

「俺っちはそんな野暮なことはしないんでね」

「そうかよ」

 まぁ確かにな、と笑みを返す。茶化し囃し立てたのは自分達だが、これから先は当事者同士が決めることだ。男らしく腹を括った同田貫だが、勝者の笑みを浮かべる薬研が言い放った罰ゲームの内容にすぐさま賭けを持ちかけたこと自体を後悔した。

 

 審神者が足早にそこへ向かうも近侍の姿は無く。折角労おうという心を挫かれ、苛立ちを募らせていた。代わりに沸き立つのは七日間も放って置かれた理不尽な怒りに似た嫉妬。乱暴に足音を立てながら審神者の部屋へ戻るも山伏は居らず、寝室や道場を見てももぬけの殻。そうしてやっと湯殿で姿を見つけた時、声を荒げ怒鳴りつけてしまう。

「おい山伏、七日もあけて置いて俺に挨拶もなしに暢気に湯浴みとは、いいご身分だな」

 山伏は上半身を寛いでおり、薄汚れた躰を隠す様に背を向ける。

「すまぬ主殿、身形を整えてからと思ったのでな」

「……こっちを見ろよ」

 たかが一週間。それでもどれだけ長く感じられたか。抑えつけていた本音がぽろりと、口を吐いて出た。

「寂しかったんだ、おまえが居ない、それだけなのに」

「……主殿」

 項垂れていた山伏が審神者を見下ろす。平均的な身長の審神者より遙かに背の高い近侍はまるであやす様に主の頭を撫でる。嬉しくもあり、子供扱いされている様にも思え、とつ、と無言で山伏の眉間へ指を二本、突き立てた。

「っ……?」

 途端、山伏の躰はがくりと力を失い壁に背を付きながら崩れ落ち、審神者が驚愕した。薬研に聞いていた通りだったが、弛緩といってもここまでとは、微かに震える山伏へ顔を近づける。

「お、おい、大丈夫か」

「っあるじ、どの……? なに、を」

 息を呑む。どうにも堪らない、最高に馥郁な香りだった。汗と、直接神経を撫で上げる様な、強烈な雄の香り。男らしく整った顔立ちに混じる疲弊と怯え。毎日欠かさず刷くと聞いた紅は落ち、清潔感とはほど遠いはずの無精髭にすら、脳の奥が熱く痺れる。ようやっと自覚し芽生えた欲がいとも簡単に首を擡げた。手に入れたい。そう思ってしまった。他の誰にも渡したくない。四肢を力無く投げ出し泳ぐ視線が外され、何かがブツリと切れるのが分かった。

 片手を山伏の寄りかかる背後の壁へ付き、片手を露出した素肌へ触れる。吸付く肌は陽光を浴び色付いて、噎せ返る程に匂い立ち誘われるまま、顔を寄せた。

「っ、ん……!」

 何に命令されるでもない、本能だった。ぼやけた視界で双眸が見開かれたのが分かる。突然の口吸いに身じろぐ山伏の後ろは直ぐ壁だ。屈強な筈の躰を抑えつけ、吐息ごと貪り食らう。脳の奥底が焦げ付く錯覚と全身を強かに波打つ快感が襲った。

「ぁ、んむっ……」

 顎と首の後ろへ手を回し、燃える様に熱い舌を絡ませ合う。首を固定しながら耳孔へ指を差し入れ、唾液を絡ませた指でくちゅくちゅと響かせて擽り、震えながら伏せられた睫毛が濡れていると気付く。

「ぃ、ふっ……っ、ん……」

 トロリと蕩けた顔で山伏は甘んじて口辱を受けている。必死に空気を求めうねる舌は赤く肉厚で、審神者のそれへと絡みついては離そうとしない。嗜虐心を煽られた審神者は緩急を付け舐り、吸い上げ、軽く歯を立てる。直接鼓膜を、脳内を犯す音に、熱く絡み合う舌を扱かれ、高められていく。

「ん……っ、う……あ」

 散々嬲られ舐られ、良いように貪られ、鼻に抜ける様な甘ったるい声に耳を塞ぐことも出来ず、山伏は震えた。息も絶え絶えに必死に唾液を嚥下し言葉を飲み込む。何故、このようなことを。力の抜けた指先が震え、審神者の筋張った指が汗ばむ肌を行き来した。程良く脂肪の乗り引き締まった肢体を揉み心地を確かめつつ愛撫する。その間も唇は離さず、ひくつく筋をなぞり、女子とまではゆかぬが隆起した胸板を揉みしだいた。

 組み敷いた太刀が興奮しているのはもはや明確で、躰中を這う焔がはっきりと濃く燃え上がり身を捩る度に揺らめく。カサついた指で胸の頂を撫でさすり摘んで扱きながら、存在を主張してきた乳輪ごと揺すった。

「っふ……」

 ぷっくりと腫れた乳首を捏ね回す。首に掛けた二連の数珠が鳴り、滲む汗で淫靡に照る赤い実を丹念に刺激してゆけば、ついには己から舌を射し入れ胸を押しつけてきた。くぐもりながらもっとと啼く言葉ごと啜る。

「ん、んんっ……」

 肩を小刻みに振るわせすっかり顔を上気させ抵抗せずされるがまま。そう仕向けたのは己だが、目立った反抗もなく無遠慮に与えられる愛撫を享受しているというのは、あまりにこの太刀の行き過ぎた信条を感じてしまう。口を解放し、唾液で濡れた耳元で囁く。

「こ、こんなに感じているなんて、はしたないぞ……?」

 糸を引く唾液がうっすら開いた唇を伝い下へ落ちる。情欲に塗れた真紅が瞬き、ぎゅうと眉が寄る。見れば見るほど端正で整った顔立ちだと人事みたいに思った。美丈夫という形容詞の似合う、禁欲的で底抜けに明るく真っ直ぐな、太陽の様な男だ。山伏は何も言わず審神者を受け入れている。拒まない。多少揺れていても、膜の張った双眸は反らされることはない。

「や、山伏……」

「……の、」

 微かに名を呼ばれる。主殿。聞こえるか聞こえないかくらい、いつもよりもずっと小さい。

「主、どの」

 掠れた低音が言葉を紡ぐ。「主殿だから」と、熱を孕んだ吐息混じりに返される。

「熱い、のだ、主殿、にっ、触れられた箇所が……疼い て」

 浮ついた声だった。肘で押し上げた反動でこちらへ凭れ掛かってくる、額に張り付いた浅葱の髪から再び鼻腔へ入る香り。審神者の首筋へ肉厚な赤い舌が触れ、触れ合った指先が絡みつく。

「はは……」

 気の抜けた笑い声だった。いつも本丸中に響くような呵々大笑ではない。肩に息が掛かり、流し目で見上げられる。多少落ち着いたのか一度深く息を吐くと、山伏が口を開く。

「欲に溺れる己が修行不足と思って居ったが。最近では離れては熱を思い出し、傍に居れば触れたいと、その先を求めてしまう、拙僧がおかしいと、思っていた……」

 半分は主殿のせいなのだぞ、と近侍が婀娜めく。審神者の霊力を喰らい生きる付喪神は、霊力と共に流れ込む感情に寄ってしまうのだと。そしてそれが常に付き従う近侍ならばなおのこと。

「……筒抜けだったって事か」

 目の前が真っ暗になりそうだ。一体どれくらい流れ込んでいたのか。皆に顔向け出来なくなってしまいそうだ。

「主殿の傍に一番長く居たのは拙僧であるからな、極一部しか分からぬだろうが……しかし主殿に、こうして触れられたいと願ったのは拙僧自身である故」

 付喪神が皆こうなるのではないぞ、と冗談めかして言う山伏が、不意に審神者を呼ぶ。凛と見据える朱殷と真っ向に視線を合わせる。

「今更ではあるが拙僧でよいのか……? 見ての通り、武骨者であるぞ」

「……おまえが、いいんだ。おまえだから。俺だって情を履き違えはしない。童貞だけどな」

 最後の一言は小声だった。高ぶった熱はそのままだが脳内は大分落ち着いたのか、審神者はしゅんと項垂れごめんなと呟く。

「……続きは流石に、身形を整えてからにしたいのだが。見苦しいであろう……?」

「その、正直興奮したが……今宵、俺の部屋に来てくれないか。これは命令じゃなくて、お願いだ」

 順番がごちゃごちゃになってしまったがと続ければ、触れるだけの口付けを寄越される。

「責任はとってもらうぞ主殿。拙僧とて、さびしかったのだ」

 再び婀娜っぽく笑んだ近侍は武骨と揶揄するのが可笑しいほどに艶めいて審神者を魅了した。三度香る馥郁な芳しき、嗚呼。

「蜜月は濃密で、夜は長いのだ。怖じ気付くは許さぬぞ?」

 逃すはずもない、手綱を握るのは果たしてどちらか。生唾を飲み込む音がやけに響いた。

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