ダイキライのハンタイ
息を殺し、じっと身を潜める。僅かに射し込む日に目を眇め、俺は板目の隙間から奴を探した。
「ーー」
大きな背中と青空の髪を捉える。狭い道具小屋の中では、身動ぎひとつで埃が舞い、カビ臭さが鼻についた。しかし今更外へ出ようにも、うまい言い訳など出そうもない。
なにがどうしてこんな狭い場所へ隠れることとなったのか、詳しくは割愛したいところだ。なんてことはない、奴にバレずに近付こうとしたところで、見つかりかけ隠れたという、ただそれだけ。貼り付きそうな喉をごくりと鳴らせば、余計渇きに苛まれる気さえした。首を伝う汗が気持ち悪い。
「……」
茹だるような暑さは何も今日が初夏とも思えない程にとびきり暑い日だからとか、例えばさっきまで太刀の奴らと乱取りしていたからだとか、この用具入れが広い畑の隅っこの直射日光が真っ向にそそぐ場所にありサウナ状態であるとかはきっと関係ない。じんわり滲む手汗をジャージで拭い、俺はそっと股座へ手を伸ばす。
チカ、チカと奴の持つ農具が日を照り返す。手拭いを肩に掛け、同じく当番の脇差と何やら会話する太刀はいつものように豪快に笑っていた。
山伏国広。俺の大嫌いな刀だ。ーー大嫌い、だったと言うべきか。快活で人当たりも良く真面目で、面倒見もいい、明るい晴れの日が服着てカカカカ笑っているような。良い奴過ぎて、誰も彼もが奴の明るいオーラみたいなもんに当てられては、燦々と笑う、そんな奴。
でも俺は知ってる。奴の戦場での苛烈さを、あの眼の奥に秘めた灼熱を。巧く隠したつもりでも、時折膨れる殺気は誤魔化しきれない。滴る血を舐め取り嗤う紅蓮が奇妙に歪むのが、俺は奴に宿る『救済』の化身と疑わない。
「っく……」
息苦しさに喘ぎながら、俺自身を扱く力を強めてゆく。禁欲的に焼けた肌を伝う汗が、存外に細い首筋を濡らす。魔除らしい眦の紅が、細められる眼を際立たせる。隆起した躰を覆う臙脂が、却って鍛えられた筋肉を強調させていた。
「ーーは、っはあ、はっ」
笑う口元からは鋭い犬歯が覗き、短く揃えられた髪は濡れ張り付いて、そしてあの眼。燃え上がるように赤い焔が、ふとこちらを捉えたーー気がした。
「ッ!」
びく、と驚愕に脚が跳ね咄嗟に手で口を塞ぐ。ふうふうと荒い息を抑え込むのに難儀して、一瞬目を離した隙に奴の姿は消えていた。中途半端な勃起をそのままにも出来ずに、俺は気配を消したまま再び自身を摩り始める。
「はぁ、っま……し……」
鮮烈な紅蓮が俺を見下ろす。そんな光景を思い浮かべながら、虚しく自分を慰めるなんて、いよいよ逆上せちまったかと冷静な俺が嘲った。止められないまま、上がる水音に、瞼の裏の背中へ意識を集中する。
「っーー」
出る、と無意識に腰を浮かせた瞬間、キイ、と扉が開く音がした。開ける視界に一気に光が舞い込んでくる。眩さに、白く爆ぜたのは何なのか。
「同田貫ーー」
酷く優しい声色だった。太陽を背に、屈んで俺を見下ろす太刀の双眸は、月のように細められた。
「え、あっ」
すう、と血の気ごと汗が引くような錯覚に、昂っていた意識すら削ぎ落とされた心地だった。見られた、とか、何故分かったのか、とか、色んなもんが頭の中をぐるぐると回って、やっとのことでジャージの裾で手元を隠す。もはや手遅れと分かっていても、俺に存在したらしい罪悪感が、俺に間抜けを晒させた。無様だ。今更こいつに嫌われたところで、侮辱されたところで、突き放されたところでーー俺はこいつをもう、無視出来ない。
「ーー」
何故か男の唇は笑みの形に変わっていた。大きな掌が頭を撫ぜると、ぐ、と相貌が近付く。
「悪い子だな?」
囁く声は恐ろしい程に艶かしい色を孕み、舐るような視線が、動けない獲物を品定めする獣めいて光を放つ。
嗚呼。俺は最初から、この男に魅入られていたのだろう。甘く婀娜めく色香が鼻腔を、胸を、脳髄を満たし侵すのを、儚く灼き切られた理性が辛うじて判断した。
「同田貫正国ーー悪い子だ」
ゆっくりと太腿へ跨り舌舐りをして捕食者は、好餌を喰らわんと妖しく笑った。