top of page

翳り

 肉を斬り裂く感触が好きだった。長い刀の様に撫で斬るより、短く真っ直ぐな脇差は突き刺すといった方がいい。
 始めは重く、ゆっくりと柔らかく温かい肉がある瞬間、ぷつりと音を立て刃が食い込む、そうなってしまえば流れ出る血の生温さと滑りで簡単に奥へ奥へ、ずぶずぶと沈んでゆく。上がるのは呻き声、もしくは悲鳴。もがけばもがくほど傷口は拡がり筋肉や内臓を抉っては蠢く様が肉色の記憶に焼き付いて、もう一度と絶命した肉塊を足蹴にし本体を引き抜く。
 返り血が視界を赤く染め、鉄臭い匂いは甘く芳しい。こちらも無傷ではない、相当な錬度のある部隊だ。でも、今はそんなことどうでもよかった。淡く降り注ぐ月灯りを光源に辺りを見渡す。地面はあちこち血で湿り、少し離れた場所では己の兄弟刀が、泥に塗れた布で本体の血糊を拭っていた。――嗚呼。あれじゃあ洗濯が大変だ。まずあの布を引き剥がすのが一苦労なのに。
 仲間以外の気配はなく、戦闘が終わったことを確認していた藤四郎の短刀が集合を告げる。戦場の一番奥、敵の本陣を討ち取ったというわけだ。審神者から帰還の為の異次元回廊が開かれ、皆疲弊した顔で扉へと入ってゆくのを抜刀したまま見送る。最後まで気は抜けない。気配を探らせたままの堀川へと、声をかけるものがいた。
「――おい、行くぞ」
「えっ、あ、うん」
 ふ、といつの間にか嗅ぎなれた、己の兄弟の匂いに戦場から日常へと引き戻される。訝しむ山姥切が視線を下へ向け、「仕舞わないのか」と問われ血糊の付いたままの刀身を釣られ見た。
「傷があるならさっさと手入れを受けろよ。あんた後に回ろうとするだろう」
「え? ああ、大丈夫、これ返り血だし」
 心配してくれていたらしい。軽傷にも満たない些細なものだと笑うと、油断するなと釘を刺されてしまう。確かに一瞬の油断が重傷を負うことにもなるが、眉間に皺を寄せ不機嫌そうで寧ろこちらが申し訳なく感じた。
「ええと、ごめんね?」
「なぜあんたが謝る必要があるんだ?」
 凄む様に低い声は端整な顔からは想像もつかない。ちぐはぐさに笑ってしまい、不貞腐れ踵を返した山姥切を慌てて追いかけることになった。

 見慣れた本丸の景色に安堵する。空間は満遍なく清浄な霊気に満ち、穏やかに時が流れている。肺一杯に思い切り吸い込めば、思考に掛かっていた霧が晴れる気持ちがした。少し距離を置いて、先に帰還した部隊の仲間や出迎えが、大分遅れて戻ってきた堀川兄弟を遠くから眺めていた。輪から外れ砂利を踏み込みながら大股で近付くのは大柄な太刀。
「戻ったか、兄弟」
 行灯を掲げ、笑みを湛える顔に影が落ちた。頷いた山姥切は被る布の上からぐりぐりと頭を撫でられ、「やめろ」と言いつつも顔が赤らんでいる。いつもの変わった笑い声を上げ弟を解放すると、視線がこちらへ移動した。
「大事無いか?」
 穏やかに細まる黒い瞳、覆い隠す様に頭上に迫る大きな掌に、無意識に肩が震えてしまう。堀川派の長兄である男は身を竦めた堀川に気付くと苦笑を浮かべた。
「――未だ慣れぬか。驚かせてすまぬな」
 山伏はゆっくりと強張る堀川の肩へ手を置くと、もう一度、悪かったと囁く。
「あ、ちが、ちょっとびっくりしただけで」
「ご苦労であった、腹が空いておろう? 皆も待っておる」
 遮るというよりはやんわりと急かす様に促し、山伏は背を向ける。労う以上の感情は窺えず、堀川は控えめに、山伏や山姥切より離れて歩き始める。

 和泉守を、そして嘗ての主人である土方を誇りに思い、また新撰組副長の刀であることこそが己の矜持であり存在意義であった。それは紛れもない事実だ。少なくとも、顕現に到る前まではそう思っていた。
「堀川……国広?」
 父と、父であろう刀匠と同じ名で呼ばれていた。自分としては誰に打たれたかなど朧気で、どんな名刀でも振るわれなければ意味もなく、意義もないと感じるのみだ。だから、同じ刀派の兄弟刀が二振り居ると邂逅させられても、戸惑いの方が大きかった。
「……」
「え、と、あの……僕は国広とは呼ばれてましたけど、贋作の疑いだってあったんです。兄弟かは分からないし……」
「そうなのか? だって堀川派は三振り揃ったんだし」
 疑問符を頭上に、審神者が微妙な顔の堀川と、不機嫌そうな少年とを見比べる。
「……」
「……あ、あの」
「山姥切、お前の顔が怖いから堀川が戸惑っておるであろう」
 堀川をじっと見ていただけの、見上げるほどの巨躯の男が不意に口を開く。宥める様に穏やかに紡がれた声で名を呼ばれ、すとん、と溜飲が下る。
「そうだぞまんば、笑え笑えー」
「まんば言うな! ……堀川と言ったか。俺は山姥切国広。といっても“写し”だが――よろしく、兄弟」
「拙僧は山伏国広と申す。こやつは人見知りでな、なに、すぐに馴れるであろうよ」
「そのぐりぐりやめろ!」
「カッカッカ!」
 山姥切と名乗った少年の目深く被った襤褸の上から、妙な笑い声の男はわしゃわしゃと撫で付けた。人間はと言えば間合いの外へ移動して「いいよな兄弟って、一人っ子は寂しいぜ」とぼやいている。
「歓迎するぞ、堀川の兄弟よ」
「! っわ……」
「む?」
 ぬっと視界を覆う、大きな掌。身を竦めた堀川に、山伏が眉を顰めた。
「あ……その、ごめんなさい」
「これはすまぬことをした。驚かせてしもうたな」
 ゆっくりと、肩に置かれた手は暖かく、堀川は首を振り消え入る様な声で一言、「よ、よろしく」と答えた。
「……」
 怖い、と堀川は思った。上背のあるお蔭で光を遮り顔に影を落とす男の、その“眼”だけが、責める様に赤々と輝いて己を苛む、そんな気がした。恐ろしかった。贋作かもしれない自分を露見させんとするかの様に思えて、朗らかに笑う彼がそんなことする訳もないと感じながら、視線を合わせられなかった。

 負い目を感じている堀川の、その理由を問い質すつもりは無いのか片方は少々恐る恐る、片方は多少不躾に距離を縮めてきた。拒絶されている訳ではないと知ると堀川も少しずつではあるが挨拶をし、声を掛け歩み寄り応えた。堀川の念願叶って和泉守が顕現される頃には、山姥切と共に内番をこなせるまでになってはいたものの、相変わらず山伏の大らかだが馬鹿でかい声や唐突に頭上に伸びてくる手には慣れることなく、その度に苦笑され申し訳なさに頭が上がらない。彼が嫌いなわけではないのだ。ただ、恐ろしい。しかし近寄りがたいとも感じず、もどかしさだけが自分の内で燻っている。

 本丸への道すがら隣に付いた彼がーー山伏が、砂利道を歩みながらゆったりと己の名を呼ぶ。なぁ堀川の。邂逅を思い出しこの名で呼ばれるのにも大分慣れたと感じ、兄を仰ぎ見る。横顔は鋭く、笑顔の失せた表情は険しさすら感じさせる。開口した犬歯の先が光った気がした。
「今宵は随分と――月が赤いと思わぬか?」
 耳元で囁かれた錯覚。ハッとして上空を見上げる。現実空間と繋がっているという月齢は十五を数え、夜更けを待ち上った真円は真っ赤に染まっていた。血の様に赤く、赤く。
「あ――」
「堀川?」
 朱殷が――血の紅が双つ、見下ろしている。堀川の澄み切った空色の瞳がどす黒く沈んでゆく。錆の匂い、赤い世界、己を飲み込まんと口を開ける、大きな影。
「あ、あぁ あああ あ  あ!」
「――堀川、よせ!」
 山伏の制止の声は届かない。堀川は金切り声を上げ、本体を振り翳した。錯乱状態へ陥り、幻覚でも見ているのか近寄るな。見るなと喚いている。叫び声を聞いた山姥切が駆け寄ってくるのを、山伏が静かに制す。
「堀川……落ち着け兄弟――ここは戦場ではない」
「! あ……!!」
 背に回された腕の暖かさに、耳元で囁かれる声の穏やかさに、ふ、と堀川が正気を取り戻したとき――本体が兄の脇腹を貫き、流れ出る血で滑る柄を握り震える手を大きな掌が包み込んでいた。背中を撫で摩られ、大丈夫だと繰り返し深い低音が鼓膜を叩く。
「っ山伏、にいさ――」
 ごめんなさい。震える声でやっとそう呟くと、堀川は意識を失い山伏へと寄り掛かる。騒ぎを聞きつけた審神者達が騒めくのを余所に、山姥切は立ち尽くしたまま、己の兄が堀川へ笑いかけるのを視ていた。

 堀川が目覚めると、見下ろす穏やかな双眸と視線がかち合う。額の暖かな感触に、山伏に頭を撫でられていると理解し、気を失う前の記憶が一気に押し寄せてくる。血の気の引く思いがした。自分はなんてことを。
「目が覚めたか」
「山伏兄さん――ごめんなさい、僕、ぼく、」
「何を謝る必要があろう? それに拙僧はそこまで柔ではないぞ」
 に、と笑う顔を見上げ、ジャージを羽織る兄の腹に包帯が巻かれていると気付くと堀川は表情を曇らせる。あの感触は幻なんかじゃない。戦場で幾度も感じた、血の通う肉を貫き通す確かな感覚。
「ごめんなさい。違うんだ。兄さんは悪くない、僕が悪いんだ……」
 “気持ち良い”と、感じてしまった。これではまるで狂人ではないか。しかも己の仲間を、己の兄に対して――感じたことのない恐怖が身を貫く。同時に湧き上がるのは、抗えない幸福感。自分が恐ろしかった。
「こんなのおかしい。間違ってるよ。だって兄さんは僕の仲間で、兄弟で――」
 兄から与えられたのは雑じり気のない慈愛、感じたのは戸惑いと、少しの畏敬。それだけの筈だ。筈だったのに。
「兄弟と思うてくれておったか。兄は嬉しいぞ」
「え……?」
 抱擁は余りにも唐突で、思考が停止する。汗の匂いと少し混じる血の香りはどうしようもなく甘く、囁かれる低音も蜜の様に艶めいて。
「堀川……拙僧はお前が愛おしくて仕方ない」
 それは擬似とはいえ兄弟間である故の背徳感だろうか。それとも、求められることへの優越感だろうか。
「大丈夫だ……兄に全て委ねるがいい」
「山伏、兄さ――」
「兄弟……」
 嗚呼。この感情を何と呼ぶのか。縋り付いた兄は慈しみ包み込む貌をし、細められる瞳は赤々と燃え酷く美しい。山伏は濡れ歪む弟の愛しい対の蒼を、離れ難いという様に、放さないと云う様に、瞬きもせず見下ろしていた。 

 

 

 

 

 

 


――我が兄弟は影が深い。強すぎる光から生まれる影はまた濃く、内に宿る光にも気付かない。闇がなければ光は存在しないというのに、眩い光に焦がれ、自己が光であると理解に至れない。揺るがぬ傑作の誇りに、真贋を越えた自らの価値に。
 そして己は今日も光を覆い塞がって、あたかも自分が光を分け与えていると思わせるのだ。
――嗚呼、愛しく憐れな我が兄弟。闇へ縛り付けている者こそが、己の兄と知らぬまま。

bottom of page