盃交
遠征を終えたその足で、部隊長である太刀は主の元へ歩を進める。飛び交う鳥の囀りを聞きながら山伏は抜ける様な青空を見上げた。遠くで短刀達の笑い声が聞こえ、整然と干された洗濯物が光を反射し、梅雨の合間の快晴の空気を思い切り吸い込んだ。
「修行日和であるなぁ」
宝冠を翻す風を柔く視線で追い、別の風に乗って聞こえてきた声に、足を止めた。審神者の座す部屋からだ。先客が居たか。
「――では、何かあればいつでも申しつけください」
「頼むよ」
「はっ!」
別段急ぐ報告でもない。滞りなく遠征を終え、みな怪我もなく資源を持ち帰っただけであったので、山伏は踵を返しかけた。聞かんとしてでなく耳に入ってきた会話からして、間際の会話であろう。襖が静かに開き、身を屈める様に出てきた男と視線が合う。
「おぉ、山伏殿。丁度良かった、主が呼んでいる」
「蜻蛉切殿」
見上げる体躯は鍛え上げられ、佇まいは一部の隙も無い武人然とした槍が、此方を見下ろしていた。
「買出しであるか」
「うちも人数が増えて来たろう。色々と入用でね、お前さんたちに頼みたいのだが、よいかな」
男とも女とも判断のつかない、はっきりしない声が、揺らめく影から発せられる。この半透明の影が、自分達刀剣をこの本丸に顕現せしめているものの正体だ。隣を見れば、現在の近侍が深くこうべを垂れ静かに佇んでいた。
「請け負うが、拙僧らだけでよいのか?」
何時もならば、万屋には審神者自身もついてくるのが常であった。影の姿ではしゃぎ物色する主を、山伏は何度か諌めた記憶がある。
「今日はお前さんたちの日用品を仕入れてほしいのだよ。籠だとか鍋だとか、遠征先の時代の方が品揃えもよいだろう?」
「さようか。うむ、分かった、任されよ」
「ありがとう、山伏。じゃあ蜻蛉切よ、お前さんは陸奥守に言って近侍を交代してから行っておくれ」
「承知しました」
深く一礼をし、蜻蛉切は一足先に部屋を出て行った。立ち上がった山伏は、影の呟きを聞いた。
「あれは真面目すぎるきらいがあるねぇ……早く馴染んでくれんものか」
「主殿?」
「おや、聞かれていたのかな?」
「……カカカ、なんの事であろう」
「お前さんは好い男だねぇ」
「カカカ! こそばゆいな!」
影は、笑っている様に揺れていた。
――――
「して、何から買おうか」
「そうだな……大きいものは最後の方がよいだろうから、細々したものからだろうな」
「然り!」
蜻蛉切は内番での出で立ちをし、山伏は縦縞の着流しを纏い、本体を佩いていた。風呂敷を携え辺りを見回す山伏の横で、蜻蛉切は審神者から受け取った品書きを備に確認している。木造の家屋が立ち並び売り子の客引きの声が響く、人の往来が盛んな蚤の市は、万屋とは違い店々取り扱う品に偏りはあるが、これだけ通りに店が立ち並べば大抵のものは買えるだろう。
「箸、茶碗、湯呑みに鍋蓋……座布団に、笊を大小、籠を六つ…鍬と、縄」
「カカカ、何とも大量であるなぁ!」
「夕暮れまでに帰還せねばならん。急ぐぞ」
「相分かった!」
これも修行だ、と山伏は笑う。物欲は断たねど、高みへ上り詰めるためには仲間と共に戦場を駆ける必要がある。己一人では罷り成らぬと理解しており、人の身を得て生きるには手入れ道具だけでは足りないということだ。
「山伏殿は」
「む?」
見下ろす双眸を見返す。赭黄は深く静かに色付いて、揺らぐ事は無い。
「修行をして、それでどうなさるつもりか」
「どう、とは?」
「自分は、主のため強くなりたい。高みへと、誰よりも強くあれと。しかし貴殿は己のための修行だという。衆生済度を願うは立派だが、強さと、武器としての強さと貴殿の心は違う様に見受けられる」
「……」
喧騒の中にあり真っ直ぐ届く声だった。見透かされると感じた。不意に赭黄が外され、惚けていた口を慌てて閉じる。
「余計な事を言った。早く買いに行こう」
「そう……だな、急ごう」
態とらしく咳払いをし、蜻蛉切が往来へ踏み込んでいく。下駄を鳴らし、山伏がそれに続いた。
「は……それは、どういう……?」
『すまないねぇ、どういうわけだか今日いっぱいは其方から本丸へ帰れないみたいだ』
審神者のふわふわとした声が、雑音混じりに聞こえる。順調に買い出しを済ませ、さて帰還しようと思った矢先のこれだった。辺りは夕暮れ時で、店を畳み始める者もちらほらいる。蒲鉾板の様な端末と主の呼ぶそれから、青味を帯びた影が揺れているのが見えた。
「主殿、敵の妨害では無いのだな?」
『それは無いと思うねぇ』
「ならば良い」
膨れた風呂敷を背負ったまま、大の男二人が縮こまって蒲鉾板を真剣に見つめる様は滑稽だったが、生憎と家路を急ぐ者がまばらに歩くのみで、気にするものはいなかった。
「しかし主、このままでは帰還出来ませぬ」
『それなら心配いらないよ、近くに宿を取らせたから、今晩は二人、休暇だと思ってゆっくり休んでおいで』
「は? いえ、しかし……自分は近侍で、」
『なはは、気にすることは無いき、わしに任せちょけ!』
『これ陸奥守、寄越しなさい。……そういう事だから、仲良くしんさいよ』
一瞬陸奥守の笑顔が写り込んだが、すぐに影だけの審神者に戻った。
「カカカ! 主殿は抜かり無いな」
「山伏殿! 未知の敵であったらどうする⁈」
「気に病む事はなかろう、主は独りでは無い」
「それは……そうだが」
『そうだよ、明日になればきっと安定した周期に戻るから、羽を伸ばしておいでね』
「は……承知しました」
審神者からの通信を終えた後も、蜻蛉切は辺りを落ち着かない様子でそわそわと伺っている。妨害する者の気配を探しているのか、今にも本体を具現化しそうである。
「蜻蛉切殿、もう日も暮れる。拙僧は夜目が利かぬ故、宿を探しに参ろう」
「そうか……すまん、分かった。主の言っていたのは一つ先の辻だ」
「うむ」
平静を取り戻し、背負う荷物を抱えなおした槍は西を指差した。黄昏に近付いた時刻、逆光もあり人々の顔は見えない。本体に無意識に手を添え、山伏は歩き出した男の左右に揺れる紫檀を眺め、静かに続いた。主の口調に偽りはなかった。しかし万が一、敵の影があれば具現化に時間のかかる蜻蛉切の盾になるつもりであった。それも杞憂に終わり、宿屋主人の人懐こそうな笑顔に、二人揃って笑みを返した。
宿の食事は慎ましやかであったが、季節の素材を用い、趣向を凝らして色鮮やかで、満足するに十分だった。その地は温泉街だったのか大浴場まで付いており、彫物を隠しつつも躰に染み渡る様な心地よさに満足した蜻蛉切が部屋に戻ると、先に戻っていた山伏が窓辺に腰掛けていた。
「もっとゆっくり入られればよかろうに」
「カカカ、明日の朝にでも入ろう、それより蜻蛉切殿、おぬしは酒を飲むか? 主人が酒をくれた」
月明かりを背に、酒瓶を持ち上げる。山伏に今は目弾きは差されておらず、備え付けの寝巻着を羽織っていた。
「自分は任務中は……」
「仕事ではなかろう? 拙僧一人では持て余す」
「……付き合おうか」
「そうでなくてはな!」
今日何度目か分からぬ程に眉間に皺を寄せた蜻蛉切を、山伏がちょいちょいと手招いた。既にその手には猪口が二つ用意されており、湯上りで火照った躰を鎮めるため、並べて敷かれた布団を踏み越えて隣に腰を下ろす。
「山伏殿も酒を飲むんだな」
「うん? 飲めぬ訳では無いぞ、進んで飲まぬだけである」
「そうなのか」
注がれた猪口を、同じ目線上の相手に掲げる。朱殷と赭黄の双眸が合い、どちらとも無く笑いあった。
一刻後、山伏は少々後悔していた。己と同じく、宴席に参加しない槍がその真面目な性格故に酒を遠ざけていると思っていたからだ。
「そう思わんか、山伏殿」
「む? 応、そうだな、その通りだ」
「だろう? だから自分は言ったのだ、助言としてな、それなのに……」
はっきり言おう、この絡み酒は酷い。猪口に軽く一杯でこれである。目が据わっている。それ以外は顔の赤らみも無く呂律も回っている。しかし普段抑えているものが一気に出てくるのか口が止まらない。
「御手杵殿。御手杵殿もだ。あそこまで卑下していては気が滅入ろうに、同じ位本丸で過ごしていて何故、等しく必要とされ大切に思われているか分からんのか」
「そうであるなぁ……近しいと思って近寄れば、警戒心の強いのか避けられてしまっておる」
「だろう⁈」
そう。蜻蛉切の愚痴は、他を貶めるものでは無い。全くの逆、心からの心配からくるものだ。だからこそ山伏も無下に曖昧な返事で茶を濁せず、結果として二人して酒の勢いが早い。
「……殿は何故ああも……」
この男は本丸の男士一人一人に対し全幅の信頼を寄せている。蜻蛉切とて主に褒められては謙遜する様な男だが、並大抵のものでは無いように思う。其々が何かしら様々なものを抱える内、近しい者と縁のある地で回想に耽るのを見たが、神の端くれなどと持て囃されようと、我らは人に作られ、人に使われ、人の想いを身に宿している。人間は脆弱なのだ。独りでは何事も儘ならぬ。傷付き、争い、騙され、畏れながらも、それでも誰かと共におらねば生きられぬ。その事を、この温厚で真面目な男は分かっているのだろう。
「……山伏殿」
名を呼ばれ、猪口から口を離した。月光を受け、紅に近い瞳に膜が張り微かに揺らいでいる。
「如何した」
「昼の……話だが、普段の貴殿は無欲にも程がある……何事も修行だと、拙いながらも思想は称賛しているし理解も出来ようが、自分は……」
主人に叱られた大型犬の様だと思った。濡れた紫檀の髪が艶めいている。握られた手に熱が籠もり、気付けば随分と近くに、蜻蛉切の相貌があった。
「自分には、山伏殿が無理に笑顔を作っている様に思えてならん……」
「……」
嗚呼、此方にまで飛び火が。完全に出来上がった蜻蛉切は顔を赤く染め、今にも他人の袖で涙を拭いそうだ。
「……左様か」
「……?」
「蜻蛉切殿に暴かれてしまうとは、拙僧も甘いな」
「山伏殿」
「貶めたつもりは無い。初めて盃を交わす相手に、何もかも見透かされていたと多少面食らっただけの事。……拙僧も迷いはある。それすらも己の力とする為に修行を続け、精神の高みへ参りたいのだ。決して、無理などしまいよ。……おぬしは真に、慧く心優しい武人であるのだな」
山伏は婀娜めいて微笑み、夜風に晒された男の紫檀に触れる。柔らかな髪を静かに撫でれば、ふ、と熱を孕んだ吐息が顔にかかった。
「拙僧は分かりやすいのか?」
「自分は……いつも見ているからな」
「うむ?」
「続けてくれ。躰が火照って熱い……貴殿の手は心地よいな」
普段の必要以上には触れ合わない姿を見慣れていたので、蕩けた顔で顔を擦り寄せてくるその一面は相当意外であった。言われるままに、本当に大型の犬を宥めているような格好になってしまっていた。
「おぬしもあまり抱え込み過ぎると良くないぞ?」
「そうだろうか」
「酒の力に頼っては自制仕切れぬであろう、普段飲まぬなら尚更だ」
「……聞いても良いだろうか」
指通りの良い髪を梳いていた手も取られ、両手を捕えられていた。熱っぽい視線を送られ、山伏は僅かに身構える。
「何だ、今更改まって聞くような話か?」
「山伏殿は、懸想する相手はおいでか……?」
「むっ?」
何か話の方向がおかしい。唐突な流れだ。正直山伏もかなり飲んでおり、鋭い眼差しも潤み、意識も浮ついて地に足ついてない錯覚があった。先程素直に本心を曝した事も普段ならば絶対にしないというのは、蜻蛉切も、山伏本人も気付いてはいない。
「……それを聞いてどうする」
「やはりおいでなのか……」
「蜻蛉切殿、手が痛いのだが」
「山伏殿、自分は……貴殿を慕っている」
そんな顔をしないでほしい。山伏は初めて蜻蛉切から視線を外し、俯く。そんな泣きそうな顔で、泣きそうな声で。
小さく息を吸う。心臓が早鐘を打っている。震え出しそうな声を、絞り出す。躰が熱い。
「左様、か。……拙僧も、同じであるぞ」
「それで……え、今何と? 山伏殿、何処へ行かれるつもりか!」
「少々躰を冷やした。温泉に浸かって参る」
「ッ山伏殿!」
強く腕を引かれた。運良く布団の敷かれた上に躰を倒され、足元も覚束なくなる程飲んでいたのかと、山伏は今度こそ後悔した。解かれた蜻蛉切の長髪が顔にかかる。
「貴殿の事を……好いている」
「拙僧は何も言っておらぬし、聞いておらぬ」
「嘘だ、貴殿の躰はこんなに熱いのに」
「ッ……放されよ。蜻蛉切殿」
振り解こうとすれば簡単に抜けられた。それでも山伏はしなかった。蜻蛉切の泣きそうな顔を見たとき、己でも気付かなかった感情に気付かされたのだ。言葉で拒もうと、心根ではこうされるのを望んでいたのかもしれない。
「拙僧は狡い奴なのだ」
心を寄せ、拒絶されるのを怖れている。結果的に酒に頼ったのは自分ではないか。喉元を自ら差し出し、喰らい付かれれば己が傷付けられたと嘆く。
「おぬしには釣り合わぬ、穢れているのだ。済度を謳っておきながら、煩悩に塗れておる……」
そのまま、この男になら喉を食いちぎられてもいいと思った。山伏は静かに瞳を閉じた。痛みは無く、唇に柔らかく震える何かが押し付けられただけだった。頰に落ちてきた液体が、何であるか。閉じたときと同じくゆっくりと瞼が開き、朱殷と、濡れた赭黄が絡み合う。
「泣いてくれるな、蜻蛉切殿……」
「己を否定召されるな、山伏殿!」
本当に、この蜻蛉切という槍は、何処までもまっすぐで澄み渡る、清廉な泉の様であると。
「や……」
「泣くな、拙僧はおぬしの傍におる……もう、逃げたりはせぬ」
「山伏、殿……!」
美しい長髪ごと、そっと頭を抱える。酒の匂いに混じり、微かに鼻腔を掠めるのは、優しく覆い被さる男の香だろうか。肺いっぱいに吸い込めば、脳の奥に拡がる充足感に胸が満たされる。
「ん、とんぼきりどの……せっそう、も、すき、である……」
「山伏殿……?」
程無くして、くうくうと安らかな寝息を立て始めた山伏に抱き竦められたまま、蜻蛉切は静かに笑った。起こさぬよう慎重に抱きかかえ、暫し迷ってから、布団を一つだけ使い眠りについた。
「ぐ……二日酔いとは、拙僧も未熟であるなッ……」
「自分は昨夜……何をしていたんだろうか」
「何!?」
「……冗談だ。据え膳を食いそびれた」
朝、互いに酷い頭痛の中、同衾した二人は何時もより大分遅く目覚めていた。
「昨晩は言わなんだが、おぬしは恐らく……あのまま拙僧を抱いていたら、今朝土下座でもして死ぬやもしれぬと思ったから止めたのだ」
「それは……たしかにその通りだ」
蜻蛉切もありありと想像できた。死ぬほど情けない姿だった。そして実際自害も厭わないであろうと明確だった。止めてくれたのには感謝せねばならない。
「……そ、その、蜻蛉切殿」
「何だ?」
「いつまでくっついておれば……」
「もう少しだけ頼む」
「一刻も早く帰還するのではなかったか?」
「……自分は、主を、仲間を信じているからな」
勿論、貴殿もだ、と懐こく笑う男を、もう振り払う事など出来はしないだろうと山伏は潔く諦め、微笑み返した。たまに酒を呷るのも悪くはないとすら思えた。初夏の朝方は肌寒く、大の男二人は小さい布団で身を寄せ合い、審神者からの通信のあるまで抱き合っていた。
開け放たれたままの窓の向こうから、往来を行き交う人々の喧騒が風に乗って届いた。