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 あつき、と掠れた幼い声が、じんわりと全身に染み渡り痺れさせてゆく。火傷しそうに熱い躰を苛む灼熱の焔は、浅ましいわたしを甚振り続けた。


 

ついおく


 

 遠い記憶に刻まれた朧気な姿が、眼前で色鮮やかに蘇る。終わりの見えない戦いに明け暮れる本丸が齢を三つ重ねる頃、現在確認される長船派最後の短刀がやってきた。

 謙信景光が一振り。顔馴染みだと伝えていたからか、いの一番に主に呼ばれ顔合わせも早々、挨拶もそこそこに内番を言い渡される。

「かたなが、はたけをたがやすんだね」

 物珍しげに辺りを見回し長靴をがぽがぽ、鍬を両手で抱え付いてくる姿は余りに幼子そのもので、嘗て肉体を得る前共に在った頃がひたすらに懐かしく思う。広陵な田畑は野菜を中心に、比較的作るのが容易な芋類が植えられており、米は基本的に万屋へ交代で買い付けに行っていた。他にも各々が趣味で花を植えたり品種改良を行う者もいるとか、他愛ない会話をしながら柔らかい土へ種を植える。

「ふしぎだ、こんなちいさなたねが、あんなにおおきくなるの」

「そうだね。みずをあげて、あとはほとんどじぶんのちからでそだつ」

 ひと月もすれば収穫が出来ると聞けば、ほんとう、と飛び上がって喜んだ。謙信は如雨露を持つわたしの傍らへ駆け寄ってくると、顔を綻ばせ軍手を外して手を重ね合わせた。

「あつき」

「うん?」

「ぼくも、はやくおおきくなりたい! つよく、おおきくなって、あつきといっしょに」

 たどたどしくも、懸命に、ひたむきに語るこの子がひどく愛おしい。膝を折り目線を合わせて、さらさらと陽射しに透ける紺碧色の髪を撫ぜる。

「謙信はおとなになりたいのだね」

「おとな……うん、ぼくおとなになる!」

「そうかぁ、ならば、がまんができるようにならないとね」

 我慢、と聞いて青空を融かしたつぶらな目が泳ぐ。幼い器に引きずられて、とりわけ謙信は純粋であると思う。数季分早く顕現に至り戦場に駆り出された身であるものの、出来るならこの子をあのおぞましい殺気に曝してやりたくはない。過保護と笑われようと、己に采配を振るう権利もなかろうと。

 盾となることで彼の小さな背を守ってやれるのなら、わたしは鬼にもなろう。より一層鋭く猛々しく、血を浴び流す日々が続いた。

 

「あつき!」

 特のついたのを誇らしげに、あどけなさの残る表情が一寸の躊躇もなく向けられる。美しく清廉で澄み渡る凪の湖のような双眸が、綻んでは花が咲く。

「ぼくつよくなったぞ」

「ああ」

「これで、ぼくもあつきといっしょにたたかえるのだぞ」

「それは、まだだめだ」

「なんで!」

 埋まらない練度差は明確で、加えて大方の戦場に検非違使の蔓延る今、低練度の刀剣を交え無理に進軍することはないだろう。

「謙信、いまはがまんのときなのだ」

「でもぼく……あつきと」

「謙信」

 分かっておくれと宥める。不満げに細められる水縹色は瞬くと、かえって痛々しく明るい声色で分かったと応える。誇らしい筈なのに、胸元に泥濘む蟠りはいつまでもさざめいた。


 

――暗い陰が落ちるそこはまるで虚無感に支配され、凍えるような心地だった。灯りのない室の中心に座す今世の主人は、静かに手招く。

「小豆長光――」

 底冷えのする声が己を呼ぶ。ざわざわと胸が騒ぐも静寂の空間には場違いで、震えそうになる声を抑えれば、いつも以上に低い声が口を突いた。

「主……」

「怖がることはない、ただ、手伝って欲しい」

 酷く冷たい視線が、固い指先が肌を這う嫌悪感に混み上がる吐気を、頷いて飲み込んだ――。


 

 暖かな微睡みに身を任せる。とても疲れた。厨を手伝い、洗濯に雑巾がけに、それから。瞼が重く、やがて深い闇に誘われる儘に、文机へ伏せばぷつりと意識が途切れる。八つ刻のすいーつを作らねば、あの子がもうすぐ帰ってくる――。

 

 包み込むように柔らかく、愛しい光に抱かれる。手放し難い愛おしさは朗らかに綻んで、広げた腕へ頭を擦り付けた。充たされる、満たされて溢れて、ひとつへ重なって、わたしの内へ入ってくる。恐怖はなく、狂おしいほどの歓喜に、ないて、悦んで。

『――   ――』

 嗚呼。わたしは――。

 

 朦朧とした意識は徐ろに覚醒する。夢を、見た気がする。些細な、すぐに思い出せないものとして忘却へ追いやるには、少しだけ躊躇するような。だがもう思い出すことは叶わない。開きっぱなしの障子戸から見えた、陽の落ちかけて赤い夕空はまばらな雲に遮られ、乱雑に反射しては複雑な絵画を描き続けながら紫へ染まってゆく。渦巻くひかりの中心が、歪み白んでいた。

「やくそく……」

 一つの言葉だけが、おぼろげな夢の余韻を象った。約束……どのような約束だったろうか。絶対に忘れてはならないはずの遠い残響に、暫しの間想いを馳せた。陽が沈む。万象がそうあるように、時が進み季節が巡るように、ひかりはゆっくりと闇へ塗りつぶされてしまう。

 

 寝間着姿の小さな躰を縮こまらせて、戸口に立ったまま、謙信は可愛らしく頬を膨らませる。

「きのうまでは、ひとりでねられていただろう」

「こわいゆめをみたんだもの。ねぇ、いいでしょ」

 強く在ろうと、純真で無垢なこの子は、怖がりなのに独りで寝たがる。こうして頼られるのが嬉しくないはずもなく、しかしこの子の為にはならないと突き放す度に、心が締め付けられるのだ。

「おねがい」

 口癖のように、おとなになりたいと、がまんしなきゃと、小さな背に重荷を背負う。わたしは生き急いでいるように見えて、それが酷く恐ろしくて、不安げに佇む謙信を抱き締める。いつか、この子はひとりでどこか遠くへ行って戻ってこないんじゃないかとか、言いようのないさびしさを押し隠して、おとなの顔で諭してやる。

「謙信。がまんだ。ここにわるいものはいないよ」

「……でも」

「おまえはつよいこだ、そうだろう? おとなならば、ひとりでねられるし、いままでできて――」

「がまんができないうちは、おとなにはなれないの」

 遮る声は僅かに緊張し、震えていた。華奢な肩をそっと抑え、微かに潤んでしまった双眸を覗き込んだ。目線は同じく、真っすぐ水縹に射られ言葉が出てこない。

「あつき、ぼく、あつきのことが、すきだよ」

 熱っぽい視線。じんわりと胸中へ満ち満ちるのはよろこびと、それ以上の哀しみ。軋む胸へ手を置き、緩く首を振る。

「そのすきは、きっとちがうものなのだ。おとなになってからのすきとは」

「ちがうぞ、うそじゃない! ぼくあつきがすきなんだ、ぼくっ」

 ぼろぼろと大粒の涙が赤い頬を濡らしながら、わたしの寝巻の色を濃く染める。慕う想いの勘違いでないことは分かっている、だからこそ応えるわけにはいかない。この子を束縛する鎖になど、絶対になってはならない。たとえ嫌われてしまうとしても、突き放して傷つけてしまうとしても。

「どうして、すきだ、すきだよあつきーーあのときのやくそく、わすれちゃったの――?」

 約束。謙信の口から出た言葉だけで、まるで、まるでその瞬間へ戻るように、“やくそく”の記憶は脳裏に鮮やかに蘇る。

『あつきと、いっしょにはなれないの?』

――人の身を持たぬ、時間の流れすら曖昧な、不確かな存在。わたしたちは二振りでひとつの拵えだった。嘗ての主君の傍を常に離れることはなく、また主は民や子供たちと同じように、わたしたちを愛してくれた。あの子は今より泣く子で、仕える立場のわたしの方が保護者のようで。

『ぼく、ちゃんとがまんできたのだぞ……!』

『うん、そうだね、えらいえらい』

『えへへ……ぼく、おとな?』

 涙でぐしゃぐしゃの顔が、やや無理をして笑みの形をとる。屈んで目線を合わせ、労るように頭を撫でた。実際は触れられない訳だから、いつも我が主君がやるように撫でる真似でしかないのだが。

『ふふ、ちょっとだけね』

『もっとおとなになる! そしたら、あつきはぼくの――』

 あの子の笑顔が遠のく。声が聞こえなくなってしまう。わたしは確かに、この時。

『! ……うれしいよ、ありがとう』

『やくそくなのだぞ!』

『ああ、やくそくだ……』

 視界がぼやける。温もりは錯覚だった筈だ。やがて景色は闇に侵されて、果敢なく散ったーー。

「あつき……あつき、すきだよ」

 暗転、今度は近過ぎてぼやける謙信の双眸を間近で見上げて、わたしは愛おしい温もりに抱かれている。

「ねぇあつき……」

「っ!」

 謙信の小さな手が、そっと下腹へ伸びてきた。咄嗟に強く掴んだ掌は熱を持ち、不意に唇へ添えられた細い指先に眼を瞬く。

「ん……!」

 唇を塞がれる。柔らかな感触にちゅ、ちゅうと啄まれ、擽られ、焦点の合わない相貌があまりに必死過ぎて、拒む為に肩へ乗せた手は縋る形へ変わってしまう。

 痺れが口先から胸を焦がして、全身を貪欲に疼かせる。舌を捩じ込まれ躰を強張らせるわたしを、謙信は目を細め間近で見つめてきた。

「ふ、ん……ぅ、あっ」

 今度こそ明確な意志を持って、脚の付け根を小さな掌が撫で擦る。抗うのは容易くて、甘美な誘惑は余りにも背徳的だ。尻餅を付けば、小柄な躰は身軽に乗り上げてくる。思考は焼け焦げて判断に支障を来し、肌蹴た浴衣の股座へと、膝が当てられた。痺れる快感は今度こそ直接脳髄を貫いて、どん、と思い切り突き飛ばしてしまった。

「っあつき……」

「ああ……だめ、だめだ、こんな、いけない……やめてくれ、謙信……」

 純真なままの水縹は、清廉から仄暗い欲を滲ませてわたしを射る。上がった息を整える間もなく、再び飛び付かれ胸元へ汗ばむ掌が触れた。

「どう、して……こんな……」

「……ぼくみたんだ、きのう、あつきとあるじが……」

「!」

 嗚呼、何ということだろう。世の穢れの一切が振りかからぬように守ってきて、これからも守り続けるつもりだったというのに。いとも簡単に足場は脆く崩れ去り、焔は一気に燃え広がってゆく。

「だめだ……はなれてくれ、っ」

「どぉして? あつきはぼくがきらいなの」

 悲しげに歪む眼に、チクリと胸が痛む。ともすれば稚拙な愛撫は、しかしわたしの劣情を擡げるには十分過ぎた。

「ぁ、あっ……いや、だめだ……」

「……こどもだからか? ぼくははやくおとなになりたいのに」

 跨ったまま、俯く幼い子。受け容れられればどんなに良いか。

「でも、たんとうであるかぎりぼくはこどもで、あつきはおとななんだ……! そんなの、そんなの、いやだ!」

 険しく表情が変わり、再度施される口吸いは乱暴で痛々しい。気付けばわたしの自身は外気に曝されて、触れ合う唇からも下腹部からも、厭らしい音が響いては、濃密な匂いに頭がぼうっとする。流されては駄目だ。

「んぅっ、謙、っこれ、いじょ、はぁ……」

「いたい、いたいんだ、あつき……!」

 謙信は自分自身を取り出して、苦しげに喘ぐ。小さく控えめな半身は完全に勃ち、途端雄の強い匂いがわたしを征服しにかかった。

「あつきっ、あつき!」

「っ……!」

 閉じた太腿の間へと彼が刺し挿入れられ、直接滾る熱と圧迫を感じる。そのまま、ずるずると音を立て抽送が始まれば、蹂躙される錯覚と抗い難い背徳感に躰が跳ねた。腰へ回った腕に縋られ、うねる熱同士が擦れ合う。

「あ、だめ、だめだ、ぁ、あっ、けんし、あっ……!」

 この子の愛らしいものが当たっている、それだけで総身を熱が駈けてゆく。それだけでこんなにも満たされて、それ以上に渇いてゆく。

 足りない、足りない。駄目なのに、これ以上は駄目だと理解していても、こころが、魂が、半身を欲してやまない。欲しい、ほしい、虚ろを埋める謙信が、ほしい。

 小さな躰に縋り付き強く抱き締めた。汗ばんだ肌は合わさり離れないと吸い付いて、融けた海色はわたしを求め揺れる。愛しい昂りが、脈打って震えた。

「あつき、あつきっ……!」

「謙信……ッあ、ぁあっ!」

 ぎゅうと抱き締めあったまま、殆ど同時に奔流が迸る。息を呑み、仰け反った躰は一瞬の間を置いて弛緩した。引き攣る太腿へ生暖かい粘りが塗り付けられて、彼を刻み込まれる。無意識に、触れられていない筈の窄まりが蠢いた気がした。

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