※刀剣破壊・刀解含
瞬
噎せ返るほどの血の匂いに、朦朧としかけた意識が覚醒する。悲鳴と金属音、硝煙と錆び付いた芳しき香、生命の潰える瞬間が何度も、何度も刃先から指先へ、脳天へと饗応する。
つい先程までそれは生きていた。この瞬間まで筋肉が躍動していた。失われゆく拍動、溢れ出すのは、まだ温かい血潮。血は命の匂い、温かさは、魂の熱だった。後ろから貫いた己が刀を、倒れ臥した肉塊から引き抜く。滴る赤黒い液体を纏う外套で乱雑に拭ってしまえば、闇夜に溶ける黒と混じり合い鉄臭さを漂わせるのみになる。鞘の無い抜き身の刀へ包帯を巻き返す男の瞳だけが強く淡く、月光の様に輝いていた。
「粗方片付いたな」
背後からの声に、男は――同田貫正国は首だけを動かし振り返る。
「今日もまた生き永らえたってこった」
「まぁそう言うな」
噴き出した返り血で包帯を紅く染めながら、暗がりから歩み出たのは青髪の男。嘗て刀剣の付喪神として人間の元で政府の為、人間の過去と未来が為と刀を振るっていたのも、遠い昔の気がした。
――それは仕方のないことだったのだと誰かが憐れんだ。ボロボロの躰のまま手入れもされずに繰り返し無理な出陣を強いられ、自分の大切な兄弟が、仲間が次々に戦場で折れてゆくのを、ただ見届けることしか出来ない。彼等が嘗て居た『本丸』ではそれが日常であった。
数ある本丸のごく一部と、悪辣な行いを揉み消されていた闇を衆前へと明らかにした一件。政府より与えられる審神者の証とも、霊力の楔とも呼ばれる木札を強奪し姿を消した一つの部隊がいた。取り残されていた審神者には急所を外し六つの斬傷があったといい、その事件をきっかけに審神者不適合者の人間による悪事が明るみになり、世間に拡がり大事になってやっと政府が対応しだしたと件の部隊が聞いたのは風の噂か。
「……いつまで続くんだろうな」
「山伏……?」
「影が。日に日に増えていると気付いているだろう?」
木札を狙い政府の追っ手か遡行軍かが昼夜問わず部隊を追っていた。しかし皮肉にも木札がある限り、審神者が居らずとも付喪神は人の形を保てている。それでも手入れとなれば話は違い、同田貫は数ヶ月前に負傷した左腕は動かず、山伏と呼ばれた男も巻かれた包帯の下の右眼は腐り落ち、暗い窪みが残るのみ。この場に居ない他の隊員もどこかしら負傷を残したまま疲労を溜め込んでいる。
「後悔してんのか、俺に付いて来たこと」
「そうではない、そうでは、ないのだ……ただ、」
頬は痩け、溌剌な笑みが失せて久しい乾いた頬を撫でる。あの時は満身創痍だった。運良く目立った負傷もなく練度を上げられた自分達部隊が奮起せねば、犠牲は増え続けるだけであっただろう。忍び泣く声木霊する凄惨な本丸に気の休まる場所など無かったのだ、この眼前の太刀の隣以外では。
「……ただな、些か疲れてしまったのだ……。常に影に怯え隠れるのは、今も、あの時も変わらない……」
艶のあった青碧の髪はぼさぼさに伸び、彫りの深い顔に陰を落としている。翳りを帯びた片方だけの深紅に灯る炎も色味が失せ、ふらつく躰を抱き留めれば弱々しげに名を呼ばれた。嗚呼、この男の肩はこんなに細かったろうか。こんなにも軽く、頽れてしまいそうであったろうか。
「同田貫……」
「っ山伏……!」
こびり付いてしまった血生臭さと、肩越しに感じる確かな温もりを掻き抱く。大丈夫、己もこの腕の中の男も今確かに生きている。荊の道と分かり尚、情人をあんな場所に置いて去るという選択肢は無かった。あそこはまさに、世の地獄だったのだから。山伏とて覚悟の上で差し伸べられた手を取ったのだ。
「……帰ろう、山伏。眠ればまた、良くなるさ」
「明日が今日より良くなるとは、拙僧はもう信じられなくなってしまった……」
流す涙も枯れ果てた揺らぐ焔が、双月を見つめ僅かに細められる。なんと言葉を返せばいいか、判らなかった。暫し無言で抱き合い、同田貫の夜目を頼りに他の隊員の待つ塒へと戻る中、二振りが言葉を交わすことはなかった。
「……」
死んだ様に眠る山伏を眺め、同田貫は情人へ静かに口を寄せると立ち上がる。皆もう限界だった。飲食は必要無い付喪神とはいえ、人の身は疲弊し、精神が磨耗しきっていた。敵刃による腐蝕の進む者もおり、いずれは全滅の危機が見えていた。
その晩、山伏を送り届けた同田貫は一人、山中を駆けた。
――次の朝。同田貫は帰ってこなかった。
その次の朝。隠れ家に一振りの付喪神が訪れた。その顔に見覚えのある山伏が戸惑う声を隠さず呼びかける。
「堀川――!」
「山伏兄さん――皆、生きていてくれたんだね」
最後に会った時、中傷を負っていた己の兄弟刀は手入れを施されており、戸惑う部隊に事の顛末を話した。
本丸の仲間は皆保護され、手入れされ、信用に足る新たな審神者と共に過ごしている事。本来であれば人間に刃を向けた禁忌である山伏らに、極限状態まで追い詰められたが故に咎められない事。そして。
「ッ同田貫……同田貫は、一緒ではないのか」
「ごめん、止めたんだ……止めたんだけどッ、俺はいいんだって、笑ったんだよ……最後に」
同田貫は一人、事件の当事者として全ての責任を負い刀解されたのだと言う。泣き崩れた山伏を抱き締め、堀川が包みを握らせる。
「兄さん達の手入れに使ってほしいって。それで、これは山伏兄さん、兄さんに持っていてほしいって……」
血の滲んだ包帯の巻かれた柄が、震える手の中で音を立てた。戻ってくることの無かった明け方、夢で見た男の声が耳元で聞こえた気がした。
『お前はどうか、生きてくれ 山伏』
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分岐Ver
同田貫の帰ってこない、朝の続き。
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――次の朝。同田貫は帰ってこなかった。
一人だけ逃げ出したのだ、とか、山中で何かに襲われ死んだとか、部隊の者は同田貫を口々に罵る。皆のために尽くした部隊長へ、心無い呪詛が向けられた。誰よりも傍に在った山伏を除いては。
「同田貫が我らを置いて何処かへ行ってしまう筈がない……きっとどこかで怪我をして、戻るに戻れぬだけなのだ……」
ふらりと立ち上がる山伏は何よりも自分に言い聞かせていた。皆も疲れてほんの少し疑心に陥って居るだけだ。山伏が同田貫を探しに行くと告げた声は震えていた。
「っぼくも、ぼくも行きます」
おずおずと細い腕が襤褸の装束へ縋る。短刀の円らな瞳には未だ若干の光が宿り、山伏は頷くと霧の立ち込める中、塒の外へと出た。
「ぼくも隊長は、帰って来てくれるって信じてます」
か細くもしっかりとした短刀の声に、山伏も微かに微笑み頭を撫でた。昼間だというのに霧の中では光も届きにくく、薄暗い視界と泥濘に巧く同田貫の痕跡を辿ることが出来ない。二振りの会話も少なくなり、次第に焦りが滲み始める。
「ッどこだ、同田貫……」
「!! 山伏さん、危ない!」
しまったと思った時には時すでに遅く。山伏は生い茂る草に足を滑らせ、道を踏み外し崖を転がり落ちた。
「――さん、山伏さん……しっかり」
「――っう……」
暫くの間、気を失っていたのだろうか。装束は泥と雨に濡れ重たく、右脚が焼ける様な熱を持っている。
「近くに泉がありました、そこまで歩けますか?」
「うむ、すまぬ、拙僧としたことが……」
片脚を引き摺りながら、少年の手を借りて小さな泉へと辿り着く。ひっそりと静まり返り、獣などの気配もなく、しかし空気は澄んで澱みなく在った。
「……」
清潔な泉の水に浸した布が火照りを鎮め、幾分か落ち着いてくる。辺りの偵察に行くという少年を見送り、静かな水面を眺めた。同田貫もどこかで同じ様に崖下へ落ちたりしたのだろうか。追っていた足跡もいつの間にか途絶え、しかし辺りに滑落跡も無かったが、よもや夜目の利かない男でもない。
脚を引き摺り、泉を覗き込んでみる。窶れ血色の悪く、不安げな顔がこちらを覗き込んでいる。情けない。己をずっと支えてくれた恋人を信じ切れていないなど、もしかしたら今度こそ、見棄てられてしまったのだろうかと。
「同田貫……――っ、うッ!!」
不意に右眼が在った眼窩の奥が鋭く痛み出し、溜らず蹲る。同時にこみ上げる吐気に嘔吐き、慌てて水を掬い飲み干した。咳き込んだ山伏が顔を上げると、包帯の外れかけた右眼から僅かに光が漏れているのが分かった。亡い筈のそこから漏れるのは、金色の淡い光。
「っなんだ……?」
不思議ともう痛みは感じなかった。それどころか燻っていた疲労が抜け、気怠さもどこかへ行った様に躰が軽く、何より視界が鮮明に拓けている。山伏は笑みを浮かべ裸足で駆け出した。沈み切っていた心すら晴れやかに、野山を駆け巡ったいつかの夢の様に、はっきりと。
「ッ同田貫……?」
そしてふと鼻先を掠めた香に足を止める。同田貫の匂いだ。忘れよう筈もない、懐かしさすら感じる痕跡が現れたのは唐突であった。微塵も疑いもせずに、山伏は再び走り出す。行く手を遮る霧も最早何の障害にもならなかった。
強くなってゆく香を肺いっぱいに吸い込む。前方に黒い人影を捉え、嗚呼と叫んだ。嗚呼、やはり生きていた、早く少年にも伝えねば。あの泉で暫し休息を取ろう。もしかしたら何らかの効力があるのかもしれない。己がこんなにも――。
「――……」
黒い人影が躊躇なく刀を振るう。それは一瞬のことで、本体を振るう間もなく山伏は己の核がぽきり、と折れる音を聞いた。斃れ臥した山伏の周りを囲む人影は皆ぼやけはっきりと視認出来ず、程なくして立ち去った。
意識が混濁し、闇に沈んでゆく。酷く凍えた心地で、朦朧とする中で山伏は、愛しい男の名を呼んだ。――やがて地面には砂埃に塗れた、砕け散った太刀だけが残った。
年若き人間の青年は、帰還した刀剣達から興味深い話を聞いた。高錬度帯の戦場の遡行軍の中に刀装も持たず、単騎ばかりの部隊があったのだと言う。手応えはなかったと戦場以外では無愛想な男の報告に、「仲間割れでもしたか、それとも奴らの作戦だろうか」と、よくあるバグの一種だろうと特に政府への報告もされなかったという。
果たして遡行軍とは何者か、男士とほぼ変わりない気配を纏う彼らの正体は、いつまでも謎のままである。
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