組の次期頭な同田貫×付喪神山伏/年齢操作有
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ものの美醜は分からないし興味もないが、あの男の笑顔は、瞼の裏に焼き付いて離れないほど、己を惹きつける。ああいうものを、きれいだと呼ぶのだろう。
触れる
まるで任侠ものの映画を絵に描いた様な“仁義”を貫き通す。堅気の人間に手を出すのはご法度、弱きを助け、強きを挫く。それが、少年の――正国の父親が組頭を務める同田貫組の昔からの姿だった。
十八歳になるまで、つまり高校卒業までは家督を継がせない。真面目に勉学に励み、文武両道であれ、と、厳しくも優しい父親は正国少年へ常々口にした。病弱だが美しく芯の強い母親も、組の者を束ねられる立派な男になれと願った。
『また喧嘩したのか?』
夕暮れに伸びる影は一つだけ。川原を並んで歩く男を見上げ、泥で汚れた学ランを羽織り、腫れた頬を乱雑に掻きながら少年は「俺から仕掛けたんじゃねぇ」とごちた。
「西高の奴ら、寄ってたかって一人を相手にしててよ。群れねぇと何も出来ねぇくせに」
『……それでも、正国坊ちゃんを預かるものとしては見過ごせぬな。もしものことでもあれば、拙僧母君殿へ申し開きが立たぬ』
「大丈夫だって国広、俺は負けねぇよ。それよか、いいのか。親父の付き添いじゃねぇのかよ?」
縦縞の詰襟のシャツに器用に高下駄で歩く国広と呼ばれた偉丈夫は、正国の世話係として幼い頃より共に過ごしてきた。死んだ母親や家を空けがちな父親の代わりとして、時に兄として、また友として誰よりも正国の傍で支え、少年を知っていた。
『何、少しの間くらい見逃してくれよう。それよりも――』
「……何だよ」
不意に強風が辺りを薙いだ。立ち止まった男を振り返る正国は風を受け咄嗟に視界を閉ざす。目を開けた少年は、眉を下げ微笑む相貌を視た。
『坊ちゃんに大きな怪我もなく、本当によかった――』
表情の緩んだ国広の短く揃えられた黒髪が柔らかく額を撫で、沈む夕陽を浴びる彫りの深い顔に影が落ちている。濃い赤い瞳が、シャツから覗く派手な刺青の様に、炎が揺らめく様に、揺れていた。思わず伸ばしかけた手を止める。己はこの男に触れることが叶わない――国広は、父親の持つ太刀の付喪神だった。
いつか見た夕陽の下の笑顔を思い出す。張り詰めた緊張が解れ安堵する様な、安心しきった笑み。己を抱く力強く、暖かな温もり。遠い日の夢の様なその景色はいつまでも色褪せることなく、脳裏に焼き付いて離れ難かった。
嘘か誠か、江戸時代の武家屋敷の様相をそのまま残した同田貫邸は、至る所に存在する隠し扉や床下の抜け穴、広い天井裏などがあり、幼い頃の正国少年は父親の言う「昔のカラクリ屋敷を買い取った」という話を信じ、また格好の遊び場としていた。心配しながらも元気に跳ね回る正国を両親は咎めず、あまり外に出たがらず家の中で一人遊びするのが好きなそんな子供だった。
少年が小学校へ上がろうかという頃、梅の見頃も終わり、庭の桜が仄かに咲き始めた春先だった。床下から廊下へと潜り抜けた先、父親の書斎の襖が開いているのが妙に気になる。入室を禁じられていた部屋で、幼い正国は一振りの刀が掛けられているのを見つけた。
「かたなだ」
掛け軸の前に飾られた太刀は鞘と分けられ、緩やかな反りの刀身は光を帯び月光の様に反射していた。興味津々と近寄った少年の背後から、静かに声が掛けられる。
『ふれてはならぬぞ、きれてしまうからな』
「わっ!!」
正国より若干年上だろうか、いつの間にか背後には、白い着物を着た少年が立っていた。高くもよく通る声が揶揄う様に顰められ、びっくりした正国は文字通りピャッと飛び上がった。驚いた拍子に太刀の柄へ指が当たり、カチャリ、と音が響く。
『すまぬ、おどろかせるつもりはなかったのだ。なかないでくれ、まさくにぼっちゃん』
「なっないてねぇよ!」
潤んだ円らな金の瞳をぎゅうと瞑り、ぷるぷると首を振る。慌てて駆け寄ってきた着物の少年に見覚えはなく、名を呼ばれた正国はきょとんと少年を見上げた。
「? なんで、おれのなまえしってんだ?」
『ちちぎみどのにたのまれたのだ。せっそうに、ぼっちゃんのあそびあいてになってほしいのだそうだ』
「! ほんとか!!」
頷きにっこりと破顔する少年は国広と名乗った。その名前には微かに聞き覚えがある。怖い夢を見て眠れぬ夜、母親を探す中誰かの話し声を聞き、父が呼びかけたのが国広という名であった。が、遊び相手が出来たということの方が幼い正国にとっては重要で、違和感もすぐに忘れてしまう。
「くにひろ、おれが、どんなてごわいてきからだって、どれだけはなれていたって、ぜったいにおまえをまもってやるからな!」
『!』
正国はテレビで見た憧れのヒーローの言葉を真似しながら、国広の手を両手でぎゅうと握り締める。驚愕にまん丸になった赤い瞳はきらきらと輝いて、うむ、と大きく頷きはにかんだ国広の笑みは、幼心に守りたいと思わせるものを感じさせた。
正国は多少やんちゃながらもまっすぐ伸びやかに育っていった。その隣にはいつも国広が居り、共に健やかに成長していた。徐々に外に出るようになり、学校では友人にも恵まれ、自発的にやりたいと始めた剣道は腕もよくめきめきと強くなっていた。
短い冬休みも半分を過ぎる頃、大人達は正月の無礼講と昼夜問わず飲めや歌えや大宴会を続けている。馬鹿騒ぎに飽きたのか正国は一人、昨年の暮れに降り積もった雪が桜の枝に残っているのを見上げていた。今年の冬は随分と寒く、例年より雪が降っている。少年も国広と雪だるまを作ったり、冷蔵庫に雪うさぎを容れ怒られたり、川原の土手でソリすべりをしたりと、まさしく風の子であった。
『ぼっちゃん?』
「国広」
とと、と冬の冷たい廊下を裸足で駆け寄ってきた国広が少年を見下ろし首を傾げる。
『こんなところで何をしておるのだ?』
「んー、うるせぇからさ、あいつらの相手も疲れるんだ。一人になりたいー、ってやつ」
ふむ、と顎に手を当て何事か考え込んだ国広が、踵を返してまた走り去ってしまう。正国は遠ざかる背を見つめ、一抹の寂しさを覚える。国広とならば煩わしいなどと感じたこともなく、寧ろ学校が一緒であればいいのにと思うのに。正国は国広のことを詳しく知らず、組の誰かの子供なのだろうと思っていた。たまに宿題を見てくれるし、正国よりも遅くに出て早くに帰って待ってくれているのだろうと。
『正国ぼっちゃん!』
弾む高い声に首を向ければ、鼻頭と耳を赤くし、国広が戻ってくる。手には毛布を抱え引き摺りながら、その動きはたどたどしい。転びそうだなと思った頃には時既に遅し。
「危ねぇっ!」
『うわ……っ!!』
どふっ、と鈍い音が響いたのは、毛布が緩和剤となり衝撃を和らげたからだ。足を取られた国広の躰が宙へ浮かび、正国は両手を広げ抱き止めるも、毛布を絡ませながら勢いのまま二人転がる。
「っだ、大丈夫かっ、国広」
『すまない、なさけないところを見せてしまった……ぼっちゃんこそ、大事ないか?』
正国はカッと顔が熱くなるのが分かった。毛布に包まれた国広が仰向けに転がり、己を見上げている。どんぐりの様に円らで大きな瞳は黒目がちで、申し訳なさそうに眉尻を下げ、悔しいがいつも見上げる顔が下にあり、上目で見つめられている。北風に晒されていた筈の手は触れられた先から強く熱を持ち、驚愕とその他色々で心臓がドキドキと煩く鳴っていた。
「ッ……」
『……カカカ……っふ、く、あはは!』
国広が突然笑い出した。噴き出した、という方が近く、釣られて正国も笑う。横にゴロンと仰向けになり、暫く緊張の緩和から来る可笑しさに笑い合った。
『……寒いだろうと思ってな、かぜをひかれては困る』
「おれは心配いらねぇよ、それより国広こそ、けががなくてよかった」
『せっそうのことは気にしなくていい……』
「お前はぜったい、おれが守ってやるから」
何故かいじけながらぷうと膨らませる国広のほっぺたを包み込んでみる。正国は照れ隠しなのか顔は赤らんだまま、もちもちしたほっぺたを撫でた。
『……正国ぼっちゃん』
「ん、なんだ?」
並んで寝転がったまま国広が手を伸ばす。頭を撫でられるのは苦手だが、国広からされるなら悪い気はしない。柔和にはにかむ貌を見返した。
『ばたばたしていてなかなか言えなかったが、今年もよろしくたのむ』
「うん、もちろんだ」
くすくすと、秘密の話をする様に小声で囁きながら、国広が躰を預けてきた。正国もしっかりと頷くと抱き締め返す。姿の見えない息子を探しに来た母親が、仲良く寄り添い眠る二人を見つけたのはそれから一時間ほど経ってからだった。
月日は移り行き、時代は変わってゆく。四季は流れ、新しい生命が生まれれば、それと同様に、次世代へと遺志を受け継ぐものもある。国広との順調に思えた生活は、病床に伏せていた少年の母親の死により変化することになる。
高級な革張りのソファから立ち上がると、拳を机に思い切りドンと叩き付け怒鳴る。
「うるせぇな! 口で言うのは簡単だよなァ、俺に文句言うだけでいいんだからな!!」
「父親に向かって何だその言い方は!」
「俺だってなァ、色々考えてんだよ!! 俺はもうガキじゃねぇ!!」
「おい待て正国! 戻って来い!」
よく晴れた日の夕暮れ、正国は中学二年の夏だった。母親の火葬を終え、しめやかに組内部で執り行われた葬儀に正国の姿はなく、帰ってきたと思えば怪我を負っていた。聞けば、どこぞの高校生の集団に絡まれていた同級生の女子を見過ごせず暴れまわってきたらしい。
「――はぁ」
『疲れておられるであろう、親父殿。正国坊ちゃんは拙僧が追いかける故、しばし休まれてはいかがか』
「なぁ国広、わしは……これから一人であいつを育ててやれるだろうか。女房も死んじまって」
項垂れる頭首の傍らに音もなく現れたのは壮年の男。穏やかに細められる赤い双眸は目尻に皺の寄り、流れる黒髪は所々白髪の混じり、濡れ羽色に艶めいている。国広は含み笑いを滲ませて『坊ちゃんは日に日に親父殿に似てきたな』と零した。
『坊ちゃんはまっすぐに育っておるよ。些か頑固なほどにな。それに心配せずとも、拙僧が居る』
「俺は昔、あんなんだったかなァ……もう少し扱いやすかった気がするんだが」
『どちらかというと叔父貴殿であろうな。ただ喧嘩っ早く困っている者を見過ごせぬは正しく親子であろうよ』
「国広手前ェ!」
『カカカカ!』
威厳と凄みを利かせた視線も大笑に伏せられ、昔からちっとも変わらず対等に接してくれる親友に、頭首は幾分か胸の痞えが下りた気がしたのだった。
「……」
国広と出逢った日、入室を禁じていた書斎に入ったとこっぴどく叱られて以来、書斎には足を踏み入れたことはなかった。今正国の目の前には、あの日と同じく一点の曇りもなく優しく輝く太刀が在る。代々組頭へと受け継がれてきた、守り刀でもあるという刀身の根元には丁寧に不動明王が彫られ、背負う炎の筋まで見事だと、さほど詳しくない正国でも感嘆するほどのものだった。
「……ふん。何が守り刀だよ。お袋の病気一つ治せねぇってのに、親父もこんなに大事にしまいこんで」
これほどまでに澄み切った輝きも、嘗て血に穢れることがあったのだろうか。間近で見る太刀は細かく波打つ鋼が折り重ねられ薄く長く鍛えられ、きっと人間の指や腕なんて真っ二つなんだろうと思った。
恐らくは、魔が指したのだろう。小さな反抗での行動だったのだろう。正国は、鋭い輝きを放つ太刀の刀身へ、半ば無意識に手を伸ばしていた。どこかに隠しでもすれば、あの頑固親父も少しは肝を冷やして冷静になるだろうかと、反発心で頭には血が上っている状態であった。
『正国坊ちゃん!!』
国広の焦った声にも振り返らず、吸い寄せられるままに、白銀へと指が触れた。
「ッ――!」
『っ!!』
炎で焼かれた直後の様に、その刃は熱かった。次いで左頬に鋭い痛み。熱を持ちジンジンと痺れるのが分かり、国広が息を荒げているのを見上げ、視線が掲げられた右手へと移る。そこで始めて、頬を平手で打ち据えられたと理解した。まるで頭から水を掛けられた様に急速に冷静になり、いたたまれなくなった正国は国広を突き飛ばし書斎を出て行ってしまう。乱暴に扉の閉まる音を聞き、頭首が慌てて駆け込んでくる。
「国広、大丈夫か!?」
『……』
尻餅を付いたまま、国広は愕然と己を見上げる黄金の双眸を思い出していた。信頼が脆くも崩れ落ち、拒絶されるのではという恐怖に指が震える。よろよろと立ち上がると、探してくると虚ろに呟き足早に駆け出した。
「国広、親父……お袋」
陽の落ちかけた長い光をほぼ真横に、正国は一人川原を歩いていた。勢いで飛び出してきてしまったが、行く当てもなく自然と足を向けていた。もっと素直になれた筈なのに。悔しくて哀しくてやるせない、泣いてしまいそうなほどに悔やんでも、飛び出した手前今更帰れない。
足の赴くまま商店街へ移動しながら、正国は昔を思い出していた。中学生の郷愁などたかが数年ではあるが、幼き者にとっての数年は、年老いた者のあっという間に過ぎ去る数年とは感じ方は違っている。国広と二人、飽きもせず駆け回ったものだ。買い食いは禁じられていて、肉屋から漂う揚げたてのコロッケの香ばしい匂いに腹を空かせたり、少し呆けていたが心優しい駄菓子屋のばっちゃんがくれたまんじゅうをこっそり頬張ったり。民家の軒下の塀を歩こうとして池に落ちたり、いつも何かしらどたばたした毎日を送っていた気がする。
あの頃は毎日楽しかったな、と正国は微かに嘆息した。笑う正国の傍にはいつだって国広の姿があった。中学に上がるといよいよ勉強やら剣道の部活やらに忙しく、国広は国広で父親に付いて遠出する用事も増え、すれ違う日々が続いた。そしてそれに比例して、正国の不良との喧嘩は増えていた。俯きながら歩く正国の影に、何者かの影が重なる。
「!」
「おうクソガキ、さっきは俺の子分達を随分可愛がってくれたそうじゃねぇか」
小振りではあるが鋭利なナイフを持つ男が立ち塞がり、正国は柄の悪い高校生に四方を取り囲まれていた。辺りに人影はなく、あちこち包帯を巻いた数人には見覚えがある。先程正国がぶちのめした不良共だった。大人数で粋がるだけで手応えもなかったが、挙句自分達のボスにチクったらしい。高校生とは思えない上背と厳しい顔は威勢がよく、動きに隙はあまりない。何かそれなりに武道の心得があると見て、正国も一定の距離を保ち警戒したまま、不敵に笑んだ。
「あんたがそいつらの大将ってわけか。高校生にもなってガキみてぇに女子を泣かせるなんざ、イマドキ馬鹿しかやらねぇっつったんだ」
「……なるほど、そいつは子分どもにも非がある。しかしな、俺もこいつらが可愛いわけよ。ぼこぼこにしてくれた礼はさせてもらうぜ」
案外話の分かる男らしい。従う奴らがいるのも納得出来る。しかし向こうは武器を持ち、対するこちらは丸腰だ。警戒を解かず、視線を左右へ向ける。逃げ道はない。
「はいそうですかと、大人しく殴られるわけにもいかねぇな」
「だからよ。一つ、勝負といこうや」
不良の一人が木刀を投げて寄越す。無言で受け取り眺めていると、「別に何も仕込んじゃいねぇよ」と男が笑った。
「俺はこのちっせぇナイフ一本。手前ェはその木刀だ。文句はねぇだろ?」
「……ふうん。いいぜ、この同田貫正国、受けて立つ!」
正国の名を聞いた途端数名がざわついた。男も眉を上げ口笛を吹く。
「驚いた、お前、同田貫か。中学生剣道で県大会出場したって、あの?」
「あ、アニキ、それより同田貫っていやぁ……!」
「煩ェ、静かにしてろ……今はんなもん関係ねぇだろうが」
組のことを言っているらしいと正国はすぐに理解する。しかしナイフを構える男の視線は逸らされるでも狼狽えるでもなく、正国もそれに応え静かに木刀を構えた。
「……」
「……」
呼吸が重なる。それを合図に、二人は同時に動いた。振り被った正国めがけ男はナイフを突き出し、小柄な正国は身軽に避けながら素早く繰り返し腕を振るった。風を切る音が耳元で呻り、ギリギリの攻防が続く。
暫くは牽制しあい、どちらかが動くとどちらかは下がり、見定める様に、大きな動きもなく小競り合いを繰り返す。その内に正国の左腕を切っ先が掠めた。怯むことなく踏み込んだ正国はお返しとばかりに脇腹を捉え、叩く。
「ッ……小せぇ割に一撃が重いな、いい動きだ」
「そいつはどうも」
正国はぼそりと呟き、額に張り付き視界を遮る前髪を掻き上げた。互いに息は乱れ、汗が滴っている。と、死角から眼前へ掌底が轟と迫り一瞬動きが止まる。それはフェイクであり、急に角度を変えた掌が木刀の上部を叩き、同時にナイフが手元付近へ当てられ捻られる。衝撃に木刀が手を離れ、くるくると宙を舞った。指先が痺れ、男と転がった木刀へ素早く視線を走らせる。周りの不良どもは歓声を上げるが割って入ってくることはない。邪魔しようものなら男が黙ってはいないだろう、逡巡し、下手に隙を見せない方がいいと両拳を握り込み構え直す。
「拾わねぇのか」
「コイツで十分だ」
「言ってくれるなぁ……面白い、手加減はしないからな」
「ったりめーだ!」
拳を突き出すと見せかけ瞬時に距離を詰め脚を払う。しかしよろめきはしたものの転倒までには到らず、下段から振り向きざま長い腕が空を裂き、頬が少し切れた。
懐に飛び込んでは打ち据え飛び退る正国と、両手を払いそれをいなす男は不良たちの見守る中激しい組合を繰り返していた。興奮と高揚で思考はやけに鮮明で、煩わしく止まない動悸も気にならない。頬を垂れる血を舐め取り、ニイと笑う。国広が手合わせの相手をしてくれたこともあるが、明らかに手を抜いて――傷つけまいと思ってくれてのことだろうが、型通りの稽古以上の緊張など試合中くらいのものだった。正国は今、心底楽しいと感じていた。張り詰めた空気、周囲の音などどうでもよく、正国の血走った金色の目は、闇が差し迫る夕陽を照り返し爛々と煌いていた。
「いい眼をしてやがる、お前、俺達の仲間にならねぇか?」
「嫌だね。俺は、ただ一人を守るために強くなるって決めてんだ」
「泣かせるねぇ! 何だよ一丁前に、女か?」
「はァ? 違ぇーよ!」
女? 何故そこで女だとかそういう話題になるんだ。と、正国は肩で息をしながら、同じく疲労の浮かぶニヤけた男を見上げ思考を停止させる。
あの日。最初に国広と出逢った日、幼い頃憧れたヒーローが、悪の組織に攫われた恋人を助けた際に告げた言葉をそっくりそのまま、初対面の国広へ投げかけたのではなかったか。今思うとあれは所謂。
「ば、ち、ちげーよ! 国広はそんなんじゃ……!」
快活に、時に嫋やかに微笑む国広の顔が脳裏に現れ、あっという間に正国は顔を紅潮させた。大きな隙をこしらえてしまい、そこをすかさず男がローキックを繰り出してきた。まんまと脚を払われ尻餅を付く。そのまま振り下ろされるナイフに咄嗟に目を瞑るのと――己を呼ぶ声は、ほぼ同時だった。
『――正国ッ!!』
ギィン、と重い剣劇が響き渡る。痛みや衝撃はなく、静寂に包まれる中瞳を開けた正国は、男のナイフを素手で受け止める国広の、広い背中を見た。
「国広……――?!」
「な、なんだ……? 何かいるのか?!」
『……』
「ッ!!」
ゾッとするほどの殺気を国広は纏っている。男はナイフで空を掻き狼狽え、不良たちも不気味がり、一人、又一人と逃げ出していった。己以外、誰一人として国広が見えていない。血の一滴も出さず仁王立つ国広に、その気配に気圧されると男は「参った」と叫ぶと一目散に退散していった。
国広は尻餅を付いたままの正国へ近付くと、先程までの殺気など微塵も感じさせない弱々しい笑みを浮かべた。
『正国坊ちゃん……!!』
「くに、ひろ……?」
ぎゅう、と抱き付かれ、息が止まる。暖かい温もりは心地よく、微かに震える肩へ顔を埋めた。変なことを言われたこともあり、緊張が解れたのではない動悸に、再び顔が熱くなった。暫し抱き合っていた顔が離れると、覗き込んできた国広の顔が強張る。
『ッ傷が……』
「え? ああ、あいつと組み合ってるうちに付いたんだろ」
右の額から鼻筋を裂き、左頬へと真新しい切り傷が二つ出来ている。痛みも忘れるくらいだが、傷跡は残りそうな深さだった。
「組の連中も言ってたぜ、顔の傷は漢の勲章だってな。大丈夫だって、あんま痛くねぇよ」
『拙僧のせいだッ――拙僧が、坊ちゃんに触れてしまったせいで』
「? どういうことだよ」
『拙僧が……拙僧は、先程坊ちゃんが触れた父君殿の守り刀、太刀の付喪神であるからだ』
「な……!?」
正国は躰を硬直させた。一体どういうことだ? 国広は、人間じゃないのか。だから回りの人間は見えなかったと。だから鋭利なナイフを受け止められたのだと、まさか、そんなことが。ずっと一緒に過ごして来た、これからもずっと、ずっと傍で居ようと、守り続けようと。しかし確かに見間違いではなく、国広の躰には傷一つない。
『頭首の座を正式に継ぐまでは、本来であれば逢えぬ筈であったのを、あの日拙僧が父君殿へ頼んだばかりに……』
すまぬと、国広は繰り返し正国へ謝った。国広が言うには、守り刀と呼ばれるあの太刀は代々頭首が受け継いできたものだということ。その付喪神たる“山伏国広”は、家督を継ぎ太刀を継承する者のみが見ることが出来、触れられると。ただし、継承を済ませる前にその刀身へ触れてしまえば、諸刃の剣となり傷付ける存在へ成り果てると。
唐突過ぎる説明はとても非現実的だ。国広が妖怪だか刀の化け物なのだと、そんな話信じられるわけもない。しかし泣き出しそうに顔を歪め震える声で告げる国広が冗談であるとも思えず、実際、確かに両親や己以外と会話しているところを見たこともなかった。
「でも俺前に触っただろ、初めて逢った日に」
『此度は刀身に触れたであろう、その後拙僧が……嗚呼、きっと拙僧から触れてしまったからだ――拙僧が傷付けてしまった』
悲痛な声を聞きたくなくて、泣きそうな貌を見たくなくて、震える肩をどうしようもなく抱き締めたくて伸ばした手が、静かに拒まれる。
「国広……」
『ならぬ、正国……もう、おぬしを傷付けたくない』
すまない、赦してくれ。国広は己自身へ呪詛となる言葉を言い続ける。正国は何も言えなかった。行き場を無くした手を、血の滲むほど強く握り込んだ。
派手な傷をこしらえ戻った正国に対し、父親は思い切り説教をした上に数日監視を付けると憤った。国広は姿を見せず、件の太刀を見に行くどころか部屋の付近へ立ち入ることも禁じられた。
「お前の身勝手さが国広を深く傷付けたんだ。その顔の傷の何倍も、大きな傷を背負わせたんだぞ」
「……親父、一つ、約束させてくれ」
まっすぐと父親を見上げ、ガーゼと包帯で厳重すぎるほど手当てを受けた正国が真摯に告げたのはこうだ。本来の通り、自分が家督を継ぎ頭首となる日までは今までの様に国広とは会わないと。
「本当なら、あいつは親父の傍にいるのが役目なんだろ。俺が傍にいたら、今は駄目なんだ。また、いつか傷付けてしまう」
悲しい顔なんてして欲しくない。あいつにあんな顔は似合わない。
「あいつには――国広には、笑っていて欲しいんだ」
「……いいだろう」
父親は頷いて、「知ったのだな」と小声で呟いた。そしてそのまま、それからと言葉を続ける。
「それから――、たとえ木刀ではなく棒切れであろうと、試合以外で心得のある者以外に手を上げることあれば、今後二度と家の敷居を跨がせはせんぞ」
「……相手から向かってきてもか」
「そうだ」
少々の沈黙後ゆっくりと頷き、正国は一度だけ、父の傍らの太刀を見た。変わらず美しい銀鋼が淡く輝き、部屋を離れ難くした。
それから数年の間、正国は勉強に励みそれ以上に部活へ打ち込んだ。国広も組のため頭首へ付き従い警護へとあたった。絶対に会わないという訳ではなく、たまに国広が様子を見に訪れては会話を交わしたが、正国は手を触れることはせず、彷徨う手に気付くとその度に国広は酷く哀しげに微笑みを浮かべていた。
とある夕暮れの刻、縁側へ座り本を読んでいた付喪神の隣へとどっかりと座り込んだ影を、確認するまでもなく国広は笑う。
『珍しいな』
「家ン中じゃあんま会わねぇもんな」
一緒に暮らしてるのにな、と笑う正国が、ゆっくりと凭れ掛かる。ぴくり、と肩を強張らせた国広が口を開く前に制し、出会った頃より大分低い声が、触れ合う肩越しに心地よい温もりと共に伝わってくる。
「親父から聞いた。今度のは、長いのか?」
『うむ……半年から、八ヵ月程になろうか。大きな仕事があるそうである』
「長ぇな……ずっと会えねぇのかな」
奇妙に軋む胸の痛みの正体が互いに判らず、沈黙が流れる。今まで、どんなに忙しくとも週に一度は顔を合わせていた。不安そうにぼうっと遠くを眺める正国を横目で見、国広はそっと肩へ身を寄せた。
「戻ってくる頃にはきっと俺卒業してるな」
『留年を免れられればだがな』
「俺に限ってそりゃねぇな」
留年する可能性など露ほども考えていない国広の口調は軽く、それが却って空元気であると正国にはバレバレであった。俯いた顔に濃く影が落ちる。
『父君殿が、坊ちゃんへの最後の贐であると』
「俺に譲ったらすぐ隠居するつもりもねぇくせに、まだまだ殺したって死なないだろ、あの親父は」
『カカカ……そうであるな』
笑いを漏らす国広の艶のある黒髪へ鼻を近付けてみれば、ほんのりと良い香が鼻腔を満たした。
「なぁ国広。俺、本当に継げるんだろうか?」
お前を貰い受けられるだろうか。親父の右腕や腕の立つ若い衆よりも、慣わしの通り、直系の己が継いでしまっていいのかという不安の混じる声だった。顔を上げた国広は金の双眸を静かに見据えたまま囁く。
『正国。坊ちゃんはまこと、誠実で実直で、どこまでも真っ直ぐな御仁である。ずっと傍に居った拙僧が申しておるのだ、もっと己に自信を持て』
深い低音は淀みなく紡がれ、鼓膜を心地よく揺さぶる。トロリとろける蜜を漬した紅玉の瞳から逸らせずに、じっと見つめあう。
『それに、出逢った日から決めていた、あの時の言葉も一言一句唱えられよう。拙僧は坊ちゃんの元へ嫁ぐととうに決めている』
「とつっ……?!」
『よもや忘れたわけでもあるまい? 熱烈なぷろぽおずであったなぁ』
「うおぉやめろ!! やめてくれ!!」
瞬時に林檎よりも真っ赤になった正国が大仰に飛び退き、国広は噴き出した。人の子の何と初々しいことよ。暫く思い出し笑いが止まぬだろうな、と考えていたところで、まだ顔は赤いが真剣な表情の正国が顔を近付けてきた。
「あれはただの口真似みたいなもんだった、忘れてくれとは言わねぇが……帰ってきたとき、改めて伝えたいんだ。俺自身の言葉で」
巧く伝えられるか分からねぇが、と苦い顔を浮かべる正国を今すぐ抱き締めたいのを、頷くことで付喪神は堪えた。永い時を人と寄り添い過ごしてきたが、この若者にここまで平常心を乱されてしまうとは。
『それは楽しみだな。…………』
「? 国広?」
『っあちらから手紙でも寄越そうと思っておったが、却って毒になろうか?』
一瞬言葉を詰まらせたが、揶揄いを含ませて告げればうぐ、と正国は呻り考え込んでしまう。人の一年と己の一年は違う。まして人の一生など――。おい見てみろよ、と、そっと肩が触れ合った。周りのなにもかもが目まぐるしく過ぎ去ってしまう中、己以外の確かな心音を感じた。
『流星群か――』
「今日は確か旧七夕だったよな。願い事か……神頼みも癪だと思ってたが、流れ星ってのもきれーなもんだな」
八月の晴れた夕暮れの空はいつの間にか藍に染まり、天いっぱいに無数の星が降り注いでいた。刹那光り輝きながら燃え尽きる星屑たちの炎が、まるで人の命そのものである様で、定命を生きる者達の煌きの灯に、付喪神は叶わぬ永久を願った。
まさに東奔西走と、四字熟語の得意な正国ならぐったりしながら言っただろう。頭首へ付いて全国を巡る日々は忙しく、月日は留めることも出来ず過ぎ去っていった。正国はといえば、三日と空けず電話を掛けてきてはやれ今日は何の本を読んだとか、友人と大きな魚を釣り上げたとか(てんしょん高くこぉんな、と言われても電話越しでは伝わらないと笑えば、魚拓が画像で送られて来たりもした)、寝付けないとごねられた夜などは浜辺を歩きながら語り合い、見上げる空が同じであれと願ったりもした。
彼岸を過ぎれば紅葉やどんぐりを、雪が積もれば木の実や冬に咲く椿が、そして、一足速く春を告げる猫柳や梅の花が、春の再会を指折り数える様子が窺えるほどに送られてきた。国広も赤く染まる山や凍った湖畔や、雪解け迫る川の景色を写し取っては送っていた。待ち望む心は同じだと、息を吹き込め封をした。
淡い薄紅が咲き誇る、暖かな春の訪れ。空は晴れ渡り、どこまでも澄み切って、空を駆ける鳥が高く鳴いた。
皆の心配を他所に滞りなく卒業に到り、保護者として同伴した若衆が、あの泣き虫でやんちゃなくそ坊主だった正国坊がと式中号泣していたのを「目出度き門出に男が泣くな」と諫める正国は、背こそ小さく幼い顔立ちだが立派な次期頭首の姿に相応しく、大の男達はわんわんとまた泣いた。
「若、オヤっさんはもうすぐ戻ってくるってよ」
「おう、そうか」
頭首就任の前に見切り発車な宴をしようと暴走する、既に出来上がった組の男共に呆れながら、若頭は学ランを揺らす風を追い空を見上げる。昨晩、最後の仕事を終え帰ってくると告げた電話の向こうの声は弾んでいた。逸る気持ちを押し込め、満開を間近に控えた桜に見守られる中、正国は一人素振りを行う。昔はもっと早くに元服を行えば大人とみなされていたのだ。組を預かるものとして、浮かれてはいけない。気を抜けば顔がニヤ付いてしまいそうだ。竹刀を振り抜く毎に、大きく息を吐く。意識を集中させ無心に鍛錬を続ける正国が素振りを終えたのは、すっかり日も沈んだ夜になってのことだった。
傷一つなく磨かれた黒の車から降り立つ頭首は、開口一番怒鳴り声を上げた。
「手前ェら浮かれすぎだ!!」
半数以上が酔っ払い、まるで正月の惨状の再来の様だった。べろべろの状態に怒号がわんと響いたか、酒臭さを纏わせながらも若衆は背筋をしゃんと伸ばし姿勢が揃った。
「親父。やっと帰ってきたのか」
「おう正坊。元気そうじゃねぇか」
「も、もうその呼び方はやめろって……ん、親父、国広はどこだよ?」
何故か日に焼け何故か夜にサングラスとアロハシャツの父親に内心滅茶苦茶突っ込みたかったが、今はそれよりも、姿の見えない付き人が気になり声を潜め訊ねてみる。頭首とその息子である正国以外、国広の存在を知るものはいない。
「就任前に会って坊ちゃんの覚悟を揺らがせたくないのである! ……だとさ」
「い、いままで我慢できたんだ、今夜くらいは大丈夫だって」
「あいつ自身も準備があるんだろう。何、明日儀式が終われば好きなだけ手でも繋げばいいだろ」
今になって緊張してきたと、その晩正国は夜遅くまで寝付けなかった。
翌朝、髪を撫で付け紋付袴を纏った正国は身が引き締まる想いだった。友人の様に進学や企業への就職ではない、襲名という形での頭首への着任。不安がないといえば嘘になる。父の背をずっと追いかけてきた、何れは追い越し、自らの力で組を率いてゆくのだろう。そして恐らく己の傍らには、国広がいるのだろう。
太陽が真上を過ぎる頃、儀式は厳かに、淡々と進められた。身内での襲名であり、外部の者がいないというのは些か気が楽だった。形式に沿って文言を述べ、現頭首と杯を酌み交わす。そして最後に、事実上の隠居となる親から息子へ、組の、家の守り刀が太刀の継承が行われた。
無垢な白装束に身を包み、国広は傅いていた。正国の口から銘が告げられると、眼前の付喪神はゆっくりと顔を上げる。常に弾く目元の艶紅以外にも化粧が施され、深紅の瞳がより一層映えていた。そして、知り合ってから十年以上経ち今日始めて、少年は付喪神の本当の髪色を知った。春の青空に透ける様に澄み切って、風に揺れ青々と煌めくが如く美しい青碧色が、端整な顔立ちにより鮮やかな彩を添えている。
『幾久しく――我が主、正国様』
朗々と紡がれる口元も薄紅に色付き、緩やかに弧を描く薄い唇が新たなる頭首の名を呼んだ。笑みを湛える相貌が穏やかに近付き、気付けば息のかかるほど間近に、国広が佇んでいる。いつの間にか部屋には己以外に姿がなく、大広間で始まったのだろう宴会の騒がしい声が酷く遠くに感じた。
『如何した、この様な格好は似合わぬであろうか……?』
「!! そんなことねぇよ、に、似合ってる……」
『まことか……!』
よかったとはにかみ揺れた髪から随分と強く甘い香がした。ガチガチに躰を強張らせたまま座る正国へ寄り添い、国広が囁く。
『立派であったぞ、まるで父君殿の様に勇猛で堂々としておった……』
「おう、正直緊張であんまし覚えちゃいねぇが……国広……その、今日からお前の主は俺、って言ったよな?」
『相違ない』
「そ、それじゃあよ、触っても、いいんだよな?」
きょと、と赤い瞳が瞬く。ややあってくすくす忍び笑い、何を今更。
『昨夜あのまま会っていたら、拙僧の方が我慢できず抱きついてしまっていただろうよ』
ぎゅう、と首に縋りついた国広を、顔を真っ赤に上気させつつ正国も抱き返した。抱き竦めると言っても国広の方が体格はいいので寧ろ抱き付く様に見えたが、数年前と違わぬ温もりは忘れる筈もなく。
「あぁ、ちゃんといるんだよな。随分、あったかかったんだな、国広……」
『坊ちゃん……!』
「っ俺はもう、組の頭なんだ、坊ちゃんは恥ずかしいだろっ……」
『可愛いではないか、残念であるな…………では、正国』
「な、なんだ」
内心心臓が口から飛び出そうな正国が無表情を装って思い切り無愛想な面となるも、抱き付く国広は瞳を伏せ身を委ねている。
『正国。拙僧とおぬしはそもそも生まれた時代も、種も異なる――何れ、逃れられぬ別離が来よう』
永すぎる生を生き、共に暮らした者は皆己を通り過ぎてしまった。外見は変えられても、どうあがいたとて見送る側であることに変わりはない。
『幾ら悩んでも答えなど出る筈もなかった……拙僧を娶るということは、子種を途絶えさすことになろう? 老いぬこの身を何度恨んだか。拙僧が、おぬしと同じヒトであったなら――』
それは正国には羨望と見えた。無数の光降り注ぐあの晩、熱心に願っていたのは何であったのか。そしてそれ以上の悔恨と渇望を、眼前の男は紡いでいる。
『拙僧の存在が、おぬしの未来を奪うことになるのではないか……そう思っても、どうしても、おぬしの傍を離れる気にはなれなかった』
「お前が付喪神じゃなかったら出逢ってなかったろうな。しかし俺は……お前がいてくれて、本当に、感謝してるんだ」
いつの間にか、共に在ることが当然になっていた。友人としてまたは兄として、家族同然に過ごしてきた。いつしかそれは慕情へ変わり、生涯を共に寄り添いたいと願うまでに到った。
「俺だけ粋がって、お前の隣に立つことしか考えてなかったみてぇだ……お前はその先まで考えてくれてたのにな」
『拙僧はただ臆病なだけだ……』
弱々しく首を振る国広が、己を見下ろす双眸を見上げる。微かに震える声に肩を抱く手に力が篭り、奥歯を強く噛み締めた。
「俺は一つも後悔してねぇ、これは俺が選んだ道だ。俺は、お前と共に生きたい。そもそもお前を手放す気なんかないからな」
国広は遠い昔伝え聞いた、戦場で主人と共に折れ散っていった無銘刀を思い出す。己が本体は朽ち果てようと、魂が本懐を遂げられるのなら、いずれ老い逝く伴侶への最期の我侭として己の破壊を願えようか。それほどまでに、命を賭して添い遂げるに値する存在なのだと改めて思い知らされる。
『正国……頼みがある』
「なんだ?」
『拙僧を――……拙僧も、子が欲しい』
「んなっ?!」
しかしそれを呈すのは、まだまだ先でも構わないだろう。主人となった少年はまだまだ若い。何より国広自身が、明日が訪れるのを、時の経つのを待ち望むことが再び叶ったのだ。どこまでもまっすぐな正国を、今はただ、信じて付いてゆこう。彼が己を信じてくれている様に、その確かな温もりを宿す手を取り、国広は微笑んだ。
『養子縁組という手段があろう? 何、守り刀の力見くびってもらっては困る。嫡男でなければ祝いを呪いに替えるなどもせぬぞ』
冗談めかして嘯いて、再び顔を上気させる正国の頬へ口を寄せた。盛大に飛び上がってひっくり返った夫を助け起こしながら、国広は今一度星へ願う。我が大切な者達に、長く武運の――幸福の続くことを。