宥める様に頭を撫でる山姥切に縋り付き、近侍は未だ明かりの灯らない部屋を眺めた。
初めての年越しを終えて
刀剣と雖も付喪神と雖も、正月とあれば浮かれるものだ。既に本丸の大掃除を済ませ、漆塗りの重箱におせちを詰める面々有り、既に杯を空け始める者有り、皆審神者から支給された紋付袴を着込み、例に漏れず近侍である山伏もぴしっと己の刀紋の縫い付けられた羽織を身に付けていた。
「主殿はまだ来られぬのか」
「主のことは近侍のあんたが分かってるだろ」
往生際悪く白い頭巾をほっかむりにする山姥切の隣に腰掛け、山伏が嘆息する。既にご馳走を並べ終え、粗方新年を迎える準備も終え、後は現世へ里帰りした審神者を迎えるだけとなっていた。年越しの瞬間はこちらで過ごすと言っていたというのに、カチコチと時を刻む時計は戌の刻を過ぎ、珍しくそわそわと落ち着きがない兄を心配し、堀川までもが煮しめの大皿を抱え近寄ってきた。
「主さん遅いね。何かあったわけじゃないだろうけど」
「あいつのことだ、酒でも勧められて抜け出せないんだろう」
「うむ……」
その内に、腹を空かせた者が催促してくる。既に宴席と化す一角も現れ、神妙な顔をした弟刀が兄を見やる。
「もう、兼さんったらあの調子だと主さん来る前に潰れちゃうじゃないか」
「いや、兄弟……主不在であるが、もう始めてしまおう」
「いいのか」
「仕方あるまい……。皆の者! 主殿は不在であるが、近侍である拙僧が代わりに音頭を取らせてもらおう!」
朗々と深く響く声が大広間に響く。一斉に振り向く男士達の視線を一向に浴び、山伏が盃を高く掲げた。
「目出度き年の瀬に、今こうしてまみえたことを誇りに思う。新たな年を迎える前に、一年の疲れも、柵も、酒で流し食ろうてしまおうではないか。皆の者! 乾杯である!」
「乾杯!」
明るい歓声が上がり、それを合図に各々大晦日の細やかな宴が開始した。つつがなく、一振りとして欠けることなくこうして笑い合えることに皆感謝し、山伏も兄弟らと大いに笑い、無礼講とばかりに食べ、ときに歌った。在りし日を語らい、重傷を負った後山籠もりを強請ったことを笑い話にもされ、普段はあまり口にしない酒も呷った。何でも石切丸や太郎太刀らの奉納される社の神酒がお屠蘇として振る舞われ、山伏も近侍として皆の挨拶へ周るごとに酒を注がれ、清廉な気が豊富に込められた神酒に和泉守や陸奥守は酔っ払ってしまっていた。
「どうしたのだ、山伏殿」
今剣を胡坐に乗せ、近侍と互いに酒を酌み交わしながら岩融が覗き込んでくる。酒の入り上機嫌な薙刀が豪快に笑い、周りに集まった彼に懐く短刀達も真似してガハハと笑う。
「うむ、主殿は一体いつになったら帰参するのかとな」
「山伏、あるじさまとやくそくがあるのでしょう? しんぱいですね」
「そうなのか?」
今剣の澄んだ真紅の瞳がぱちりと瞬く。誰に話したわけでもなかったが、酒の回ったのか眼の据わった太刀が唸った。
「もう日付も変わってしまうぞ。山伏殿、急ぎの用であろう? 通信を飛ばしてみてはどうだ」
「良いのだ。拙僧が勧めただけで口約束でしかない……最近は頓に忙しそうであった故、忘れてしまわれでもしたのであろうな」
「山伏はそれでよいのですか?」
純粋に見詰める短刀に目を合わせず、無言で酒を傾ける。岩融と今剣は顔を見合わせ、肩を落とした近侍の背を優しく叩いた。
「まだおわったわけではないでしょう?」
「左様。山伏殿、俺達も共に主を待とうぞ」
「……拙僧は果報者であるなぁ」
呵々と笑う声は幾分か弱々しい。亥の刻を半刻ほど回った時刻であった。
部屋で飲み直すと広間を後にする者や、年越し蕎麦をこしらえる為に厨へ赴く者の出始めたのはもう今年も残り一刻と差し迫った頃。山姥切は初期に顕現した打刀の好で仲の良い蜂須賀や歌仙と静かに語らっている時、急に背に重みを感じ声を上げた。
「んっ?! なんだ……兄弟?」
「やまんばぎり……」
誰が見ても酔っていると分かる風貌で、頭をぐらつかせながら不貞腐れた顔の近侍がいた。山伏は紋付袴を引き摺りながら兄弟刀の背に頬擦りをし、頗る機嫌の悪そうにうんうん唸っている。
「あるじどのがまだこぬのだ……拙僧のことなどどうでもよいのか……?」
「兄弟! 飲み過ぎだ」
「まるで泥酔した時の君にそっくりじゃないか」
「お、おれはここまで卑屈じゃない……」
「おや、鏡を持ってこようか?」
山姥切がじと、と睨み付ければからからと蜂須賀が笑う。と、山伏が弟に後ろから抱き付いてくる。肩口に顔を埋め、鮮やかな青碧が頬を擽った。
「前々から準備していたのだ、新年は主殿と、初日の出を共に見ようと……だのに、だのに……」
「なるほどね、いそいそと地図や端末を見比べていたのはそのためか」
雅ならお手のものと、どういう理屈かは知らないが主の時代の電子機器の類も使いこなす歌仙はどうやら山伏へ助言をしていたらしい。人の良い笑みを浮かべ蜂須賀が背を摩ってやっており、背中越しに心地良い低音が振動してくる。
「あと数分で今年が終わってしまうね……うん、残念だけれど」
「……歌仙殿、」
「今から主の端末へ連絡を入れても数十分のラグがあるからねぇ」
「うううぅ……」
「兄弟。こうなったらとことん飲め。主のことは、今は忘れてしまえ」
がし、と力強く肩を引き寄せ、傍らの酒瓶を手渡す。蜂須賀はそんな無茶な、と呟くが、歌仙は自分の持っていた徳利を差し出しては頷いている。どうせ元旦以下三箇日は出陣遠征全て返上して休暇を出されている。山伏は据わった眼をしたまま三振りと手元の酒を数度見やり、自棄だとばかりに笑った。
いつの間に本丸には除夜の鐘がどこからか響き渡り、新年の挨拶がそこかしこで交わされている。細やかに花火も上げられ、感嘆の声が上がった。
審神者がようやっと姿を現したのは、花火も打ち終わり静けさが幾分か戻ってからのことであった。審神者の執務室は近侍と各部隊長以外入室を禁じられており、主の帰参の際は部屋の行灯がひとりでに灯される仕組みとなっていた。
審神者は焦っていた。何しろ久しぶりに実家に帰省した時は親戚中が集まっている様な状態で、審神者という聞き慣れぬ何やら変わった素質を発現した彼は当然引っ張りだことなり、慣れない酒を勧められるまま大晦日は早々に二日酔いで部屋で寝込んでいたので、本丸へ戻ることが出来るほど体力の回復するのが遅く、また本丸の収容サーバーは年末年始男士達と過ごしたい審神者達で列をなしごった返している状態で、VRとして意識を飛ばす事が出来たのはとっくのむかしに日付の代わり、丑の刻の頃であった。
「遅れてすまない! 皆、待たせてしまった、な……」
大広間まで慣れない衣装を引き摺って来てみればどうだ。酒の匂いの充満するそこは大声で笑い転げる者、すでに潰れて寝っ転がってしまっている者と、散々な状態である。特に酷いのはいつもの悪酔いする酔いどれ連中で、徳利やらビール瓶やらワインのコルクやらが転がる畳をそろそろと進み、近侍の鮮やかな髪色を目印に距離を詰める。ゆらゆらと揺れている短く刈り揃えられた頭に違和感を感じる前に、ぐるん、と勢いよく山伏が振り返った。
「ぁあるじどのぉ!」
「?!」
内番時も刷く紅との境が解らないほどに赤く染まった貌は幸せそうに蕩け、がばりと両腕を広げ抱き付いてくる。突然のことに尻餅を付き、ずれた面紗の奥で驚愕に瞬いた。
「主殿! 新年であるなぁ!」
濃厚な酒臭さに顔を顰めそうになり、息を詰めた。傍に腰掛けた初期刀を始めとした数振りはまるで責める様に審神者を冷めた目で見つめており、特に山姥切が怖い。超怖い。一部で兄弟限定モンペとか言われているだけのことはある。身を捩るががっしりとホールドされ、真っ赤な顔がジリジリと近付いてくる。
「今からでは、初日の出には……間に合わぬなぁ!」
初日の出。近侍の薄い唇が紡いだ言葉にハッとする。あれは一週間前であったか。山伏が、元旦の早朝には山へ登り、共に初日の出を眺めたいと誘ってきた。珍しい近侍からの誘いにとても嬉しく二つ返事でOKしたのではなかったか。
「っご……ごめん山伏! 忘れてたわけじゃない……」
何てことだ。山伏のことだ、近侍としてもあるがずっと待っていたに違いない。酒のせいではなく眼が潤んでいる様に見え、咄嗟に抱き締め返す。上機嫌にふわふわと笑う山伏が首を傾げる。
「憶えていてくれたのであれば、拙僧はよいのだ」
いつもより高めの声で、しかしたどたどしく笑われ無理をしているのが分かると審神者は胸を締め付けられる思いだった。不安にさせた、心配もかけただろう。何より、折角の誘いを振るってしまったことで、どれだけ傷付けてしまっただろうか。
その時、審神者の脳裏を掠めたのは果たして妙案か。酒に弱い青年が臭いで酔ってしまった故の暴走であるかもしれないが、顔を輝かせ山伏を見つめる審神者は自信に満ち溢れていたと初期刀らは後に語った。
「山伏、謝っている時間も惜しい、刀の姿になれるか?」
「? 何ゆえであるか?」
「まだ、まだ間に合うかもしれない。俺もお前と日の出を見るの、楽しみだったんだ!」
戦場で遡行軍や検非違使の落とす刀剣は、審神者が霊力を籠めて初めて人の身を持った付喪神として顕現する。同じく中傷以上の怪我を負った男士も神力や体力の消耗を防ぐため、一時的に元の刀剣の姿へと変わることが出来た。冬の日の出は標高の高い山では間に合わないが、そこまで高い山でなければ十分間に合うはずだ。しかし足元の覚束ないであろう山伏と共に山を登るのは力の無い人間の青年には負担が大きい上、太刀である近侍は夜目も効かない。潤んだ朱殷の双眸へ注がれる視線は真摯で、山伏は逡巡した後小さく頷いた。
「主、ここなら開けている方角も標高も丁度良いはずだ、天気も良く晴れる予報だし、今からなら間に合う」
「いいとこ見せないとね」
「絶対間に合わせろよ、兄弟のためにも」
タブレット型端末を慣れた手付きで操る歌仙、綿入りでかつ軽い羽織を持ってきた蜂須賀と提灯を差し出す山姥切に、本体へと身を変えた山伏を佩く審神者は真剣な眼差しを開いた時空の歪みへ向けた。
「おうおう、行ってこい」
「やまとおのこのちからをみせるときですよ、あるじさま!」
はしゃぐ今剣を肩車し岩融がこちらに手を振っていた。何だか気恥ずかしく、静かに身を預ける山伏をそっと撫で、使わないと思っていた登山靴に履き替え山を目指した。
真冬だというのに標高の低い山に雪は見当たらず、しかし吐く息は白く、肌を刺す寒さに身を縮こませつつも歩みを止めることはしない。時折ザワリと夜明け前に落葉した木々を吹き抜ける木枯らしが身を引き裂く様に荒び、歯をガチガチと鳴らしながら、只管山道を登っていく。
『主殿……少し、休まれては如何か。このままでは躰を壊してしまう』
帯刀した近侍がかたりと震え訴えてくるが、審神者は無言で首を横に振った。既に見上げる空は白みかけており、目的地である中腹まですぐそこであった。無様に震える声で、もう少しだ、とだけ呟き、落葉の積もる地を蹴り上げた。
「……! 着いた、着いたぞ山伏、ぎりぎり、間に合った」
肺へ入り込む冷気に息苦しさを感じながら、開けた見晴らしの良い岩場へと膝を付き審神者が喘いだ。翳した手から霊力を受け、寒空に似合わぬ桜の花弁がひらりと、冬の風に舞う。次の瞬間にはいつもの装束の山伏が太刀が瞑目して佇んでいた。ゆっくりと開かれた深い赫緋と審神者の視線が交わる。
「主殿……」
もうすっかり酔いの抜けたのか、宝冠を翻し山伏が下駄を鳴らし近付く。震える躰を隠そうとする青年が鼻水混じりの顔でにかりと笑い、応える様に近侍は慈愛に満ちた笑みでそっと抱き竦める。
「覚えていたというだけで、拙僧には充分であったのに。主殿は誠、強情を張る御仁であるな」
呆れた声色でも、浮かぶ表情は愛しい子に向ける母の様である。
「……時に、主殿。いつものじゃあじではないのだな」
「今更だなほんと……に、似合わないだろ、どーせ……」
「何を申すか、良く似合うておるぞ」
「お世辞はいーよ」
楽だからという理由で年中、中学の時の紺色のジャージを着ている審神者の今の格好は、綿入り半纏に藍色の紋付袴で袴の裾をたくし上げ深緑色の登山靴を履いているといった中々に頓珍漢な出で立ちである。葉っぱやら小枝やらをひっつけ泥で一張羅を汚し、拗ねる審神者がそっぽを向く。
「ああ、もう。主殿は……!」
「おわっ、苦しい、よ」
ぎゅう、と溜らず掻き抱けば青年が身じろいだ。日本人らしい低い鼻頭や耳朶を赤くし、吐く息へ朝陽が差し込むのが分かると二人は東を見やる。
「嗚呼……!」
ほぼ同時に、感嘆を漏らす。雲一つない、冷えた冬の日の澄み切った黎明に、真っ赤な朝日がゆっくりと昇り始めていた。鳥の囀りと共に、夜の気配が温かく塗り替えられてゆく。
「ごめんな、山伏。楽しみにして、準備もしてくれてたんだろう。忙しくて、危うく忘れてしまうところだった、いや、約束をすっぽかす寸前だった……」
「良いのだ、主殿……拙僧は嬉しいぞ、こうして主殿と共に、初日の出を見られてな」
深く紡がれる声が染み込んで、暖かい温もりに満たされてゆく。梵天が丁度良く頬に当たりぽふぽふと感触を楽しんでいると山伏が擽ったそうに綻んだ。
「……山伏、言い忘れてた。明けましておめでとう……今年も、一杯迷惑かけると思う」
「うむ……」
「もしかしたら、危ない目に合わせてしまうかもしれない……お前を守れるような男になるから。絶対」
「主殿をお守りするのが拙僧らの務め故。しかし拙僧も、修行が足りぬな……」
へにゃりと力の抜けた笑みを浮かべ、山伏が破顔した。大き目の半纏を山伏の背中にかかる様にかけ直し、二人くっついて昇る日の出を眺めながら。
「拙僧は刀で在るが故、最後は戦場で折れるか、主殿を守り散るのが務めであれば。あなたの傍に居られぬ時の来るのが辛いとは、情けない限りであろうな」
「お前は本当に人間の様なことを言うな……俺だって、辛いよ。出来るなら来ないでほしいし、考えないようにしてるさ」
「主殿……主殿、今はただ、抱いていてくれまいか」
眦を赤く染めながら、近侍が柔らかく微笑む。新年早々、目出度い初日の出を尻目に辛気臭いなと審神者が苦笑した。微かに鳴る歯を悟られたのか、山伏がそっと口を寄せてきた。愛おしい温もりに、一人と一振りは朝日の昇り切るまで抱き合っていた。
……
……
その日の夜。短刀を中心に正月遊びに繰り出された審神者が心地良い微睡みに意識を沈ませようとした時、音も無く襖の開く音がした。お年玉をねだられ、酒に誘われ、ご馳走で腹の膨れ。初夢は縁起のいいものであればな、などと呟く声に、深みのある低音が重なった。
「初夢を見るには些か時間が早いのではないか、主殿?」
襦袢のみを纏い、気恥ずかしさを滲ませながらも。囁かれる近侍の声には色香が漂い、婀娜めいて微笑む情人の影が寝室に伸びていた。
……その晩審神者の閨房で行われた濃密な睦み事を知る者は、当人ら以外にはいない。