※2017年ぶし受けwebアンソロ寄稿文再掲
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SweetlogiC
甘いものには、チュウドクセイがあるらしい。
空にぽっかりと浮かぶ綿菓子の雲を見上げ、被らされた麦わら帽子が、乾いた音を立て地面へと落ちる。照り付ける強い陽射しがジリジリと肌を刺激しては、伝う汗が音も立てずに足元の色濃い影に消えてゆく。
貼り付いた喉へぬるい麦茶を流し込むと、待ってましたとばかりに躰中に汗が滴り出す。
「嗚呼、人妻の膝枕……アイス……」
願望が口を突いてしまったらしい。部屋でひんやり快適な風を浴びながら、自分がそれは幸せそうに人妻に甘えている様が、浮かんでは熔けてゆく。今己に降り注ぐのは慈愛の微笑みではなく、灼熱と生温い風だ。
まだ今月が始まったばかりだというのに、この暑さは堪える。それというのも、ひと月ごとに季節の代わる本丸へ顕現したばっかりに、加えて更に運の悪いことに、畑当番をここ数日連続で当てられているときた。ほとほと不運というものは重なるのだと痛感したのも束の間、どこからともなく蝉の合唱がこだました。この鳴き声も、間違いなく暑さを感じる要因の一つなのだろう。良く掘り返された黒土へと、容赦なく汗が吸い込まれていった。
「――……」
流れ出る額の汗を拭いながら辺りを見回す。遠くで風鈴が涼し気に鳴る音に混じり、微かに声がした。幻聴かと錯覚する程に、耳に良く馴染み残る声だ。
「――包丁殿」
陽炎に霞む地平線に太陽ひとつ。否、燦々たる笑みの男が一振り。そよぐ青草の髪は僅かに汗に濡れ張り付いて、よく日焼けた貌は朗らかに綻んだ。ザリ、と高下駄を鳴らしながら軽やかに近付く青年は、もう一度名を呼ぶ。たとえば、審神者の鈴を転がすような円やかさとは異なるが、普段のやたら響くがなり方と違う、この男の声が存外に好きだった。手の触れる程近くへと並び立つ大柄の太刀は、しゃがんで膝を着くと、濡れ手拭いを火照った額へ宛がってくれる。三度名を呼ぶ、柔らかく眼を細めた顔がいつもより大分近い。
「包丁殿。あまり根を詰めるでない、こんなに汗を搔いて」
「ほえー、きもちぃー……」
「カカカ……! そうら、日陰に参ろう、このままでは干上がってしまうぞ」
よく冷やされた手拭いが、熱を幾分か和らげてくれる。山伏に優しく背を押され、広く影のなかった畑を抜けると、濡れ縁へ連れられる。桶に水が張っており、腰掛けたと思えば履物を丁寧に脱がされ、足を浸けるといいと言われた。
「冷たくてきもちい」
「それは何よりだ。おおそうであった、これを」
盆には氷の入った麦茶と、椀に盛られたきらきらしたものを見付け、大きく瞠目する。
「お菓子!」
「冷やし梅入りの寒天だ。先月採れたものの、危うく根こそぎ梅酒にされかけてなぁ」
「いっただきまぁす!……うん! おいしい!」
お菓子はおいしい。甘くとろけるべっこう飴やキャラメルに、甘酸っぱいパイやタルトも、素朴なあんみつや団子も、この本丸で作られるものはどれも好きだった。何しろ厨番とは別に、専属の菓子職人がいるのだ。そのことに関しては、ここに喚ばれて本当に運が良かったと思えるし、職人がこうして毎日の甘味の味見をこっそりさせてくれるのも、非常に嬉しいことなのだ。
「昨日の甘夏のシャーベットも好きだけど、おれこれも好きだな」
「そうか、参考にさせてもらう」
きっかけは何だったか。あれは確か顕現して最初の日に案内された厨で、当番だったこの太刀に味見を頼まれた時だ。
大量に採れたらしいいちごの処理に困っていた山伏に、いちごムースを教えた。その晩皆から好評だったと嬉しそうに告げられて、じゃあ自分が知っているものを教えるから、また作って欲しいと頼み、いつしか慣例化した。山伏の非番の日は美味い菓子が食えると評判で、本人も満更でもない様子だ。
「はぁー、ちょっと元気出た……」
「あともうひと頑張りか。どれ、拙僧も手伝おう」
「えっ、いや、いいよ」
「なあに遠慮するな、夕餉までに終わらせた方が良かろう?」
だろ?とまるで悪戯っ子みたいに首を傾げ、見上げる顔が近付く。未だ引かない汗を甲斐甲斐しく拭われ、にいと口角を上げる顔の近さに驚きに跳ねた足が、桶の水を撒き上げた。
「な、なんだよぉ」
「カカカ、それだけ元気なら問題はなかろう! さぁゆこう、包丁殿」
ぽんと頭を撫ぜる手はじんわりと温かく、陽射しの下振り返る山伏は、穏やかにはにかんだ。どこからか薄桃が風に舞い散ると、からかわれたと察した顔が熱を持つのが分かる。
「おい待てよ、んもー!」
「カカカカカ!」
不思議と先程まで感じていた疲れすら吹き飛ばすような笑い声は、ソフトクリームみたいなもくもく雲を突き抜けて、空に響いていた。
遠くでは、鳴り止まない破裂音と楽しげな笑い声。夏の盛りに納涼として花火を楽しむ傍ら、喧騒から外れぼんやりと空を眺めている山伏を見掛けた。縁日の夜店よろしく振る舞われた焼きそばやりんご飴をたらふく食べ、手に持った綿あめをそのままに隣へ座る。
「どしたんだ山伏」
「……久しく戦に出ていないと思うてな」
「あ……そうだね」
はしゃぐ声は自分の兄弟らで、その何振りかは『限界を超越した』極と呼ばれ、修行へ赴いた者は皆以前の何倍も強くなって帰ってきた。己も含め本丸では暫く出陣のない者も多く、現にここ数週は毎日お菓子が振る舞われていた。
「包丁殿は……楽しいか?」
「ん? うん……まあね」
薄桃の桜の枝のような綿あめを頬張り、曖昧な返答をする。きっと彼の質問の主語は『戦のない日常』ってことなのだろう。いつも笑っている顔が酷く寂しそうに見えてしまって、何だかこちらまで寂しくなってしまう。
「あのさ」
それが無性に悔しくて、悲しくて。繊細に細工をする大きな掌に、己のものを重ねる。ほんの僅かに体温が高い山伏の手は、汗でしっとりと濡れていた。
「いっつもお菓子もらってばっかりだしさ、たまにはやる」
いつも手放さない鞄には飴玉が詰まっていて、その内のふたつぶを広い掌にぽとりと落とす。青色の包み紙の中には、夏色のレモンキャンディが入っている。飴とこちらの顔を交互に見て、山伏はきょとりと瞬いた。
「これは……」
「おれは寂しい時、甘いもの食べたら元気になるんだ。だから、これ」
照れ臭くてそっぽを向いたまま、不躾な言い方になってしまう。顔が凄く熱くて、ほらと手の中の飴をひとつぶ掴むと、包み紙を剥がして口元へ近付けた。
「口、開けろって」
「あ、あぁ……」
あむ、と大きな口に飲み込まれた鮮やかな金色。不意に上空に花火の閃光が瞬いて、山伏の赤い眼がきらきらと煌めいた。互いに座っていても差のある身長に意地になって腕を伸ばして、いつもされるように碧の髪をぽすと撫でてやる。今は皆花火に夢中で、驚く山伏は不思議といつもより幼く見えた。
「――包丁殿……」
「さ、さっきの話だけどさ」
恥ずかしさから逃げようと話題を変えるつもりが、声は裏返って山伏がふっと小さく噴き出し、更にこちらの羞恥が高まることになる。それでも笑顔が戻ったのが嬉しくて、胸のあたりがじんわりと温まる。これはそう、彼のお菓子を食べた時と同じ充足感。
「おれは結構楽しいぞ。山伏のお菓子はおいしいし、後は優しい人妻がいればな~……!」
「ーーそうか……」
おや、と首を傾げる。再びしょんぼりと俯いてしまった山伏は、言いにくそうに口をもごもごさせると、花火に掻き消されそうな声で囁いた。
「……ほんの少しだけ、羨ましいな」
「そうかな? 山伏は楽しくないのか?」
「拙僧では……包丁殿の隣に立つのに相応しくない気がしてな」
「ん?」
今度こそ疑問符を浮かべて台詞を反芻する。言い淀んだ言葉を汲み取る為に先程のやり取りを繰り返し、ますます混乱しそうになる。自分達は謂わば同じ境遇で、それでも満足する楽天的な思考を羨まれたのではないのか。
「でも待てよ……あ、おれもう満足してるじゃん、だってあんたがいる」
「えっ?」
「え?」
「……え、あ、包丁殿は……っひとづまが良いのであろう?」
そりゃあそうだ、優しくて包容力も抜群な人妻はずっと傍にいて欲しい存在だし。いやしかし待てと、再び疑問符が脳裏へ現れる。己の思い描く理想の人妻像にぴったりな相手が、眼前にいる気がしてきた。山伏は優しい。偶に厳しいけれど、きっとそれも愛情の一つだし、何より包容力が凄い。これはあれだ、灯台下暗しってやつだ。
「うーんと、おれ、取り敢えず今は、山伏いればいいのかも」
「……!」
がたん、と長椅子が音を立てた。完全に思考が置いてけぼりをくらい、躰を動かせない。
頼りない提灯の光が、山伏の酷く傷付いた貌に色濃く影を付けさせた。
「え、?」
「っ包丁殿は……おぬしはもっと、強い御仁と思っていた!」
そのまま踵を返すと、山伏は振り返りもせずに立ち去った。一振り取り残され、唖然と遠ざかる背中を見つめた。ーー強さ。この満ち足りた日常に突如放り込まれた言葉に、忘れそうになっていた激情が、わんと核を揺らした心地がした。
「…………」
彼との手合わせ、最初は練度の差もあり刀種の差もあり文字通り太刀打ち出来ず、余裕綽々と笑う様が格好良くて、悔しかった。憧れていた。
教えた手順を幾度も反芻しては几帳面にお菓子を作ってくれる、その直向きさが好ましかった。あの大きな手で作られるお菓子はどれもとてもおいしくて、感想を律儀に聞いては嬉しそうに笑う貌が眩しくて、胸の辺りがむずむずするような、暖かくなるような不思議な感覚が楽しくて夢中だった。
山伏は、刀の本分として戦場を駆けるのが役目と感じていたんだろう。その為に喚ばれた命と腕だ、夜の闇が得意な己と活躍出来る場は違えど、互いに高め合い支え合い、それぞれの『強さ』を求める為に。だからきっと、平穏な日々に満足した己に呆れて。
「おれだって、分からないわけじゃない」
独り言ちた呟きは、一際轟いた音と共に重く胸に長く尾を引いて落ちていった。
包丁藤四郎が修行へ往くという知らせは、瞬く間に本丸中に届いたらしい。審神者に頼み込んで譲り受けた道具一式を身に纏い、兄達に見送られ出立の準備を進める。朝餉が食べられないのは少々残念だが、道中で握り飯を食べる楽しみと笠を固く結び付ける。
「行っておいで」
兄弟と長兄は、皆微笑んで見送ってくれた。離れの程近くへ出現させた時空の扉は、元の主の生きる時代と場所に合わせられた。未だひっそりと朝の気配を漂わせる本丸を見渡す。朝日が白く淡い光を放ち、暖かさはやんわりと秋の訪れを告げている。もうひと月が経過する頃かとしみじみ気付き、和らいだ陽射しに、涼やかな風が頼りなげに草花を揺らした。
「――包丁殿っ!」
やにわに呼び止められ、振り仰ぐと青空。案外に柔らかいと知った碧と、どこまでも澄んだ深い赤。息急き切った呼吸も整わないまま膝を着くと、山伏はこちらをまっすぐに振り仰いだ。
「武運を……――!」
泣き出しそうなのを無理に笑った顔は不格好で可笑しくて笑えば、もっと泣きそうな表情に傾いてしまう。嗚呼、もう、そんな顔するなよ。行きづらくなるだろ。
「へへん、おれはもっと人妻にモテるために、修行に行くんだぞ」
これは精一杯の強がり。何日間かそれとも何週間か、はたまたそれ以上か、おいしいお菓子はお預けだけど。
一瞬だけ躊躇して、思い切って碧の髪へ口を寄せる。陽射しに煌めく髪が頬を擽り、山伏の驚き見開かれた瞳はきらきらと星みたいに瞬いた。
「帰るまでにおれの教えたお菓子、たくさん覚えろよな!」
「……! ああ……!」
笠を深く被り外套をバサリと翻す。男は涙は見せないもんだ。開かれた扉へ、勢い良く飛び込む。独りきりは初めてで、でも先程まで胸を占めていた不安はもうなかった。
強くなる。強くなって、山伏と対等になりたい。そしていつか同じ戦場に立って、そしてそれから。お菓子みたいに甘いだけの生活はきっと減ってしまうけれど、それでも構わないと今なら思えた。光に包み込まれて、未来はきっとどこまでも明るくて温かい。
人妻への憧れと山伏に抱く感情が違うと気付いて、更にそれが『恋』だと知って、それから更に山伏と両想いだと分かった後のどたばたは、もう少しだけ先の話、かもしれない