堕ちる
夢でも見た心地だった。暦の上では秋といえ、照り付ける太陽は容赦なく体力と水分を躰から奪ってゆく。乏しい風に風鈴が揺れ、氷の入った麦茶から雫が垂れる。逆上せた様な朧げな思考のまま、傍らの太刀を見る。
「なんだって?」
「……カカカ! すまぬが忘れてくれい、拙僧の戯言である故」
涼しげな顔に伝う汗を、張り付いた笑みを見つめる。微かな違和感も暑さに痩せ我慢しているのだろうと暢気に考え、熱を持った床へ躰を投げ出した。聞き取れない程の小声は珍しく、己を見る視線は何処か遠くを見据えた様に、焦点が合わない。
「何でもないのだ……」
山伏が姿をくらましたのは、暑さの抜けぬ寝苦しい、月蝕の夜であった。
夜が明けまず気付いたのは山伏と同室である初期刀の打刀だった。本体の鞘だけが残され、気配もどこにも無いと焦燥した様子で山姥切は言った。修行にでも行ったのだろうと返そうとし、鞘にこびり付いた黒赤に目を留める。内なる何かが騒めき立つのが分かる。血だ。何の血だろうか。誰の血だろうか。
更に奇妙な事に、審神者を除くと己と堀川、山姥切以外の刀剣は山伏国広という太刀を憶えていないと口を揃えて言うのだ。午後には本丸に共に暮らしていた痕跡を残らず浚い忽然と消えてしまった。まるで最初から居なかったかの様に。異常な事態に、審神者は山伏の記憶のある三振りに捜索を指令した。
「……変だよね、誰も覚えて無いなんて」
「……ああ」
堀川は笑みを曇らせ、山姥切は襤褸布を深々と被り常より低い声で「絶対見つけてみせる」と呟く。
「……そうだよね。僕らが見つけなきゃ、絶対」
沈んでいた二対の瞳に輝きが戻り、こちらを向く。強く意思を宿す空色と緑青が、こいつらは兄弟刀であると気付かせた。応え頷いた同田貫の金もまた、満月に近い見下ろす淡い光を受け煌めいていた。
己は武器だという意識が高いと他人に言われたし確かにそうだと思う。神経を研ぎ澄ませ、抜き身の刀身を震わす空気に、本体と一体化した錯覚すら感じ、視覚を、四肢を与えられた事に感謝した。木々のざわめきすらしない静寂の森で、嗅ぎ慣れた匂いに口角を上げ、刀身が歓ぶべき再会に微かに鳴ると喉奥から湧く笑いを堪える事なく、眼前の太刀に対峙したまま笑った。
「中々帰って来ないもんだから迷子にでもなったのかと思ったぜ」
「……拙僧が分かるのか」
「……何……?」
本体を地面に刺し、歩み寄る太刀に面食らいぶれた切っ先に、山伏の指が触れる。豪放な見た目に合わぬ繊細な動きで本体ごと核を撫でられた気がして、無意識に喉が鳴る。眉を顰め見下ろす赤い双眸もまた、強い光を帯びていた。
「殆どの者は忘却したであろう? 本丸に残した痕跡も潰え、追ってこられぬと思ったが」
「お前の血が残っていたからな」
眇められた朱殷に、審神者の告げた言葉が脳裏に蘇る。「山伏は悪しき荒神へ堕ちた可能性がある」と重々しく放たれたのだ。張り付いていた笑みは外され、しかしそれでも纏う空気は違う事はなく、事実から目を背ける事を許さない。
「……還ろう、お前の顔を見れば連中も思い出す」
「残念だがそれも叶わぬ。拙僧は……帰り道が分からぬのだ」
外された宝冠の下の闇に染まった漆黒の髪が、背負っていた筈の焔が蒼くその身を覆うのを、事実を残酷な程突き付けていた。
「拙僧が初めてではないのだ。政府は危険視する審神者や刀剣を秘密裏に堕とした上に、処分しておる。痕跡を一切残さず、存在が抹消され忘却されてきたのである」
「何を言ってるんだ……? 政府だと?」
突拍子もない言葉にますます思考が混濁し、胸倉に掴みかかる。抗いもせず、見下ろす朱殷がすうと細められる。
「力を持ち過ぎた者はいずれ道を踏み外すものだ……向こうにとっての都合の悪い者もまた。手の回るうち対処する。拙僧にも追手が付いているでな、余り長居出来ぬのだ」
全てを諦め受け入れた、あまりにも哀しい笑みだった。ならば、ならばお前の兄弟はどうなる。
「じきにおぬしらも忘れるだろう、息災であれ……正国殿」
蒼い焔ごと躰を抱く。身を焼く筈のそれは不思議と熱は無く、躰を強張らせた山伏の耳元へ顔を寄せる。
「許さないからな、黙って消えるなんざ、俺は」
言っただろう。お前の隣が俺の居場所だと。
「俺も咎を背負おう。俺を遺して死ぬなんて、お前は出来ないからな。だろう、国広」
双眸が見開かれ、ついで腕の中の男が苦笑した。
「おぬしの髪も月の光に染まったな」
それでは目立って仕様がないな、と、月光の元笑う太刀は変わらず高潔な一寸の曇り無い輝きを宿していた。
共に堕ちよう。闇に在り、互いを照らせるように。繋がれた手を決して離さないと誓い、駆け出した。