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ランジェリー

 

 朝だ。未だ重たい瞼を閉じたまま、肺一杯に新鮮な空気を送り込む。昼間の蒸し焼きになりそうな篭る熱と違い爽やかさすら感じられる匂いに意識が覚醒してゆくのを噛み締め、薄い布団の中で伸びをした。煩わしい蝉たちの合唱も始まっておらず、微かな小鳥の囀りは心地よい目覚ましとなっている。
 並べて敷かれた布団の隣へ視線を向ければ、同衾相手の鮮やかな青碧が覗いている。己より後に目醒める事は滅多に無かったが、昨晩無理させ過ぎただろうか。久方ぶりの二人揃っての非番と珍しくあちらから酒に誘ってきたのを朧げに思い出した。
「……ん?」
 身動ぎをし、違和感に布団を捲り上げてそして、固まる。瞬きも忘れ同田貫は己の躰を見下ろした。
「な、なんだこりゃあ?!」
 良く通る低音が朝焼けに照らされる本丸へ響き渡った。

 ドタドタと騒がしい足音が向こうから聞こえたと思えば、声も掛けられず勢い良く障子戸が開け放たれた。部屋の主でありこの本丸の大将と呼べる、数多の刀剣達を統べる男はさして驚いた風も無く乱入者を見上げた。文机に筆を置き、緩慢な動作で同田貫を見上げる。
「おはよう、同田貫。早いね」
「どういう事だよこれは!」
「どう、って言われても……」
「この変な薄い着物の事だよ!」
 逡巡と呼ぶにはやや遅く、塾考よりは早く、審神者はゆっくりと同田貫が指差すそれを眺め、ああ、それねと言った。
「昨夜はどうも寝付けなくてね、熱帯夜は堪えるよ。お陰で変な念が芽生えてしまった様だね」
「それとこの格好と何の関係があンだよ……!」
「良く似合うと思うけどなぁ」
 面紗の奥で笑いを噛み殺し、黒のベビードール、と呟く。同田貫は普段より深く眉間に皺を寄せ詰め寄った。寝る時は確かに越中の褌を履いた筈だ。上は寝苦しく羽織ってなどいない。それが起きてみればどうだ、黒の透かし織の繊細な、滑らかな肌触りのそれは誰がどう見ても、女物のそれである。ひらひらと風に巻き上げられそうで、躰中に刻まれた傷痕を撫でるたびに擽ったい様な何とも言えない心地がした。気付いたのが早朝で本当に助かった。己と情人に当てられた部屋は主人の部屋と近いのも功を奏した結果になった。審神者の部屋まで誰にも見つからず来られたのは、今になって奇跡かもしれないと背筋を怖気が走る。
「面白い格好じゃないか、く、くく……」
「あんたのそれは間違いなく邪念だろうが! どうしてくれんだこれ!」
「きっとバグだ」
「はぐらかそうったってそうはいかねぇからな、今すぐ元に……」
 胸倉を掴み上げそうな程昂ぶっていた同田貫が動きを止める。耳を欹て、ついに腹を抱えて笑い出した審神者から目線を外す。
「呼んでいる」
「あはは……ん? 誰が?」
「あいつが呼んでいる」
「俺には何も聞こえないよ?」
 無言で踵を返した同田貫が横目で己の主人を見、来た時と同じく障子戸を開け放ち走り去った。
「……犬か。いや、狸かな」
 再び文机へと向かい、審神者は未だ堪え切れないのか笑い混じりに呟いた。

 最早奇跡と呼ぶべきか、己の部屋までへの道に人影は無く、息を切らしたまま存外小声で入るぞ、と呟いた。実際声が聞こえた訳ではないが、呼ばれた予感がしたのだ。布団を頭から被り、己の兄弟刀の様な格好で山伏が開かれた戸口に立つ男を見上げていた。
「正国殿ぉ……」
 凛々しく目元を彩る眉が下がり切り、鮮烈な赤が不安に揺れている。一体どういう事だろうか。己の置かれた状況など遠くに追いやり同田貫は膝を付いて目線を合わせた。
「国広……? どうした」
「拙僧、拙僧は……」
 ゆっくりと薄い掛け布団が落とされ、視界に飛び込んで来た赤はこの太刀の焔だけでは無く。同田貫は思った以上に気が動転していたのかベビードールを着た己の見た目に山伏からの反応が無い事に疑問を持たず、瞬間的に色々な物が爆発するに至ってしまった。
「お……ま、なんて格好……し、」
「拙僧にも分からぬのだ……起きたらこの珍妙な格好で……」
 赤だった。透かし織は己の黒の物と近いが肌を覆う面積は圧倒的に少なく、陽を浴びた健康的な肌に食い込み気味な紐もまた赤い。飾り紐が繊細な布を繋ぎ、隠された局部は見えそうで見えない様な、胸元の赤い頂は色付いて見え朝から非常に目に毒である。羞恥に拭われた目弾きを刺したかの様に顔は赤く染まり、迦楼羅の焔も薄っすらと赤味を増して見える。
 率直に言うと物凄く、色香を纏っている。変に隠す事なく裸体を晒すより余程色々とくる。
「正国殿……?」
 審神者に怒るべきか、それとも感謝すべきか。起き出して来た者の声遠く部屋には届かず、向かい合った二人とその主人のその後の一悶着は審神者の口からは語られる事はなかったという。
 

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