現世は既に梅雨入りの頃を迎えていたが、異空間に佇む本丸はいつもの代わり映えしない和やかな雰囲気を醸している。誰かが審神者にそれとなく強請ったという噂を耳にしたが、審神者は「すまないね…」と小判箱と手にしている掌大の端末を交互に見、遠い目をしたらしい。この場所をびんごさばと呼ぶのと何か関係があるのだろうか。大分後に顕現した槍には皆目見当も付かないね、と、手合わせを終えたばかりの御手杵は夕焼けを見ながら思った。
この長身の青年の本体は槍である。同じく槍である蜻蛉切と、練度がほぼ同じ数振りの刀剣たちとの練度上げの際の隊長を交互に熟している。今日は偶々出陣はなく、手合わせを命じられた。一時期畑当番ばかりで欝々とし掛けたが、最近は均等に当番が回っている。これでいい。本体を抱え座り込む御手杵は、疲労も浮かぶ顔でしかし満足そうだった。
「うあぁ、疲れたぜ」
くあ、と欠伸を噛み殺す。本来手合わせの時間は一刻も続ければ互いに満足し自然と解散するのだが、今日はどのくらい打ち込んでいたか御手杵も把握していない。昼餉の後始めて休憩を挟み、優に未の刻辺りからずっとではなかろうか。
「流石にキツいなァ」
「修行が足りぬぞ、御手杵殿!」
「んあ?」
呵々と特徴的過ぎる笑い声と低く良く通る声が響く。のそりと振り返った黒橡の双眸が、抜ける様な天色をした髪を捉えた。
手を伸ばせば届く距離に立つのは、本日の御手杵の手合わせ相手だった太刀である。山伏姿の出で立ちの男は今は短髪を晒し、縞の入った詰襟の他は上半身を脱ぎ去って小脇に抱えている。高下駄を脱いでいたので更に見下ろす位置にある眼が、今は此方を見下ろしていた。山伏は態とらしい重い溜息を吐いた槍を見、今一度呵々と笑った。
「如何した御手杵殿! 疲労で腰が抜けたか」
「違うって…あんたァ元気だな」
「日々の修行の成果である! 御手杵殿も拙僧と共に修行に励もうぞ!」
「あー、ハイハイ、今度な」
「うむ!」
此の太刀は本丸でも練度の高い部類であり、現に御手杵とは二周り以上練度に差がある。審神者は後に同部隊に配属すると言ってはいたが、正直いつになるのかは分からない。
「……どしたよ?」
「? 如何した」
「いやそれ、こっちの台詞……」
「湯浴みに行かぬのか?」
「あぁ、そういうことか」
きょと、と丸い黒っぽい瞳が真っ直ぐ見ていた。ぐ、と伸びをし、一気に立ち上がる。夕日が目に眩しく、まともに見てしまった御手杵の長身が揺らいだ。支え様と背に回された腕に奔る炎もまた赤い。
「悪ぃ、国広ーー」
「む?」
山伏が周りを見渡したところで、御手杵はこの太刀が、同じ太刀の和泉守を慕う兄弟刀を指す単語だと認識しているのだと気付いた。
「あんたのコトだよ、国広」
「カカカ、兼サン殿が我が兄弟をよくそう呼ぶのでな、拙僧はあまり呼ばれぬ故」
「嫌か?」
「否、慣れぬだけだ、」
「あんた、」
「う、む?」
御手杵が細く長い指で山伏の頭を抱え込む。戸惑っている。付き合いの短い御手杵にとっても明白に思える程に、この男は戸惑っていた。中傷になろうが内番であろうが崩れない笑みに歪みが見える。互いの顔が近く、ぼやけていた。
「あんたァ、眼……赤かったんだなァ」
とさり、と軽い音がした。山伏の抱えた装束が床に散らばるが、御手杵は大して気にならないのか視線を赤から逸らさない。深い黒橡が二つの夕陽を覗き込んでいる。瞬きもせずに。
「ぉてっ……」
「食ったら美味そうだ」
「!?」
「なんて、な」
御手杵は黒橡の眼を細めた。むにゅ、と山伏の頬が両手で挟まれる。そのままあっさりと手を解かれ、道場の冷たい床にへたり込んだ太刀を見下ろし、槍は痩身の脇差のようににっかりと、笑った。
「そんな顔もするんだな、あんた。まだまだ修行不足、なんじゃないか」
「御手、杵……殿」
「座り込んでると風邪ひくぜ、国広。風呂行こう、な!」
「……相分かった」
唸る山伏を、御手杵が覗き込む。気の抜けるような微笑みはそのままに、双眸は細く弧を描いた。
「腰抜けたのか? 運んでやろうか」
「要らぬ」
「また内番一緒の時はよろしくな、センパイ」
「うぬ……」
飄々としていて食えぬ奴だ。山伏は延べられた手を払い、装束を掻き集めると足早に道場を後にする。その後ろをゆっくりと追いながら、戦の際に近しく瞳に光を湛えた槍は、やはり笑っていた。