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出立前夜

 今宵の満月は、一年で最も大きく見えるのだそうだ。

 夜半に控えめに響く遠吠えを、縁に座り込んだまま聴いた。肌を刺す凍えた風は、熱い燗に慣れ始めた喉を残して寒空へ攫ってゆく。
「ーー……」
 吐く息は白んで散る。胸を充たす騒めきが、妙な緊張感をもって違和を唱えた。「彼奴は彼奴、何も変わらぬよ」等という強がりすら、きっとあの男は一笑に付してくれるのだろう。人の身を得て知った世界は尚広く、御しがたい。すっかり冷めてしまった猪口に映り込む金月が、手の内で揺らめいた。
「手に入れたと思ってもそれは幻想だ」
 水面の月ごと呑み込む。揺蕩う写し身に懸想したところで、本当の光は指先から容易く零れ落ちる。ーー己を慰めるだけの酒は、こんなにも苦いものだったろうか。
「おい」
 鋭い二ツ月が見下ろしていた。視界を覆う暗闇にぼんやりと浮かぶ双眸が近付く。どっかと胡座を掻くと、男は猪口を奪い燗を煽った。
「しみったれた面してんじゃねェ」
 もう帰ってこない訳じゃない。それでも、自分の来歴を見直す旅の辛さは、想像を遥かに上回るものだ。
「してない」
「してンだろが、強情っ張り」
「敵に狙われぬとも言えないだろう」
「おれが不覚を取るかよ」
 破顔する情人はより幼く見え、喉元を迫り上がる我欲すらばかばかしく思えてくる。往くな、とは口が裂けても言えない。
「ーーお前ならば、憂慮すら叩き切れるな」
「当たり前だろ。つかいつものあれ、やってくれよ」
 日常になって久しい傍らの体温が腕へ触れる。なぁ早くと、常より声調が高く甘く感じられるのは、きっと惚れた弱みに過ぎない。
 たとえそうであったとしても、この愛しい月が己以外に囚われようとも構わない。何故なら。
「同田貫正国。そなたに、恒久なる武運のあらんことを」
 祈りとは時に、束縛にもなり得る。約束は魂を喰らう鎖となり、心を縫い付ける杭ともなろう。
「応」
 祈りの契り、その糸を手繰ってどこへなりとも迎えに往ける。この脚で、この腕で探し出して取り戻す。諦めは悪い方だと教えられたのはこちらなのだから。
 何よりも美しく、愛おしい月が綻んだ。

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