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※片思い

――――

シる

 機微に疎いという自覚はあった。繊細に四季を感じ取るだとか、声色のひとつ、かすかな表情の変化ひとつ、聡く他者の感覚を理解するなど、己には不必要で無縁であると、思っていた。
 最初に気付いたのは匂い。香だとかを焚く連中と同じようで違う、いつもと違う匂いを纏わせて奴は眼前を通り過ぎた。意識して誰かを嗅覚の差異で分けるという行為自体が初めてで、奴に笑いかけられる匂いの主が脳裏へ現れては、胸の内に奇妙な蟠りが燻った。
「――殿」
 ざわつく感情の正体は掴めぬまま、ほんの微かに甘い声色が己以外に向けられていると分かると、明確に苛立ちが募る。きっと自分以外は、奴本刃すら気付いていない。ずっと見ていた己だけが――。
「――」
 ある日をきっかけに。そう――ある日を境に、奴が纏う空気が変わってしまった。
 細められる眦に僅かな赤みが差すのを。所作に控え目さが加わり、躰の負担を和らげるしなやかな足運びになり、『  』を呼ぶ声に明確に艶が交じるのを。識ってしまった。知ってしまったのだ――己が、奴に懸想していることを。奴が、懸想する己以外を受け容れたことを。
 些細なことだった。周りの者達は変化に気付かず、変わらない日常は続いてゆく。戦場とを行き来して、彼の太刀の鮮烈な紅蓮が、何もかもを灼いては己を焦がす。手の届かない深紅を、いっそ手折ってしまえたら。懐に抱き砕いてしまえたら。
 内を巣食う慕情は憎悪へ傾き、怯える双眸を見下ろしはたと気付く。
「……嗚呼、   ――」
 高潔さの変わらない魂鋼は赫く燃え盛り、遍く導く輝きは曇ることはない。救済は微笑みを湛えたまま、黒を浄化する。
 振り向くことない背へ焦がれる。眩い煌めきへ手を伸ばす。美しいと初めて感じた深紅が、手に入れたいと願った光が、彼方へと遠ざかってしまう。
 奴の赤の世界に、己はいないと思いしった。

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