2015発行コピー本web再掲
ときめき☆本丸ぱにっく!
天候の変化しない筈の異次元空間に建てられた本丸にぽっかりと奇妙な黒雲が浮かんでいる。地鳴りと共にとある一室へと稲光が轟き、続いて不気味な笑い声が木霊した。
「フハハハハ……遂に完成したぞ! 究極の惚――」
「主殿! 大事無いか、今の音は一体……主殿?」
「おおお前か、丁度良い! これをやろう!」
駆け込んできた近侍に無理やり小さな包みを押し付け、興奮冷め止まぬ様子の主人を山伏は困惑したまま見下ろした。煤に塗れ煙を背負う姿は見慣れてしまったとはいえ、珍妙な実験を繰り返し絡繰りや怪しげな薬を作っては本丸の皆へ寄越す審神者は『変人』として有名で、早くに顕現し近侍を務めている山伏は良く被害を被っている。その度に初期刀や練度の高い己の兄弟らは鉄拳制裁を下し、それでも懲りない審神者との追いかけっこがこの本丸での日常となっていた。
包みを何とは無しに開けた近侍が瞳を瞬く。貝殻だ。掌に収まる白い二枚貝がぱかりと音を立て開き、中には丁寧に塗り重ねられた艶めく玉虫色が見えた。
「艶紅であるか?」
「無くなりそうだと言っていただろう! 我輩特製だからな、良く色の乗り煌めくぞ!」
「未だ無くならないと思うが……」
「秋の新色だ! 審神者印、特許は未だ無いが是非とも試したまえよ!」
「そ、そうか、では有難く頂こう」
剣幕に気圧され頷く山伏に内心拳を握り込み、着替えてくると審神者が足早に部屋を去る。残された近侍は小振りで白い蛤の内に塗られた艶紅を繁々と眺め、胸元に大事に仕舞い込んだ。今度試してみよう、日頃物欲を棄てろとは言うが偶にこうして主に贈られるものは良いものも多く、大切にされているというのは悪い気はしない。変人と言われるような男だが戦の采配の腕は確かで、刀剣にも真摯に接する審神者へは信頼を寄せていた。例え未知の絡繰りで躰を女子へ変えられたり短刀より幼い童の姿にされようとも、ややお人好しの過ぎるとその兄弟をして言わしめた山伏は、審神者を慕っていた。嵐の前の静けさとはよく言ったもので、その後は平穏無事に一日が過ぎていったのだった。
十三夜月の登る晩、廊下を歩きながら審神者から唐突に告げられた事柄を思い返す。明日は朝から政府からの召集に応じるとかで、本丸での一切を近侍に任せるといった趣旨の話を唖然と聞いた。いつも直前に言われては対応に追われ、兄弟達が手伝ってくれるとは言えもう少し何とかならぬものだろうか。書類整理も本来なら主の仕事だが、殆どが山伏の担当になっているし、当番割も然りである。数週に一度は締め切りに追われる審神者が度々目撃されていた。
「甘やかしすぎたのであろうか……?」
夕餉を終え、溜息を吐きつつ部屋へ向かう山伏に背後から声が掛かる。
「よう」
仏頂面にはどことなく歪みがあり、落ち着かない様子で傷痕の残る頬を掻く黄金色の双眸を見下ろした。
「同田貫殿、拙僧に何用か?」
「おう、あのよ。……随分前に、主から誉に酒を貰ったんだ、俺一人じゃ飲み切れねぇし……次郎の奴は飲み干しちまうだろうから持て余してたんだが……その、山伏、俺と飲まねぇか?」
珍しく歯切れの悪い男の口振りに、きょとりと瞬かせる緋眼は薄闇に在り澄んだ輝きをして、首を傾げる。
「……嫌、か?」
「うむ? 否、厭という訳では無いが。拙僧で良いのか?」
「俺はお前とが良いんだ」
然らば盃を授かろうと朗らかに笑う相貌を見上げ同田貫は顔を赤らめた。上気した頬を俯き隠し手を取る。
「……じゃ、行くぞ」
「相分かった」
手を引かれ大人しく付いてくる山伏は知らない。この打刀を始めとして数人の男士が彼へ懸想するのを、そしてそれを阻む二振りの刺客が居ることを。
辺りの気配を探り、同田貫は慎重に足を運んだ。数人ずつ割り振られ区切られた居住区画を通り抜け、突き当たりの部屋へ通される。余計な物の一切無い簡素な室内には行燈に火が灯され、盆に乗せられた徳利と猪口がほんのりと白を浮かばせていた。
「は、入ってくれ」
「うむ。……御手杵殿は居らぬのか?」
「蔵で調べ物があるって言ってたぜ」
夕餉を早々に平らげ広間を出て行った槍を思い出し、成る程そうか、と答え勧められた座布団を断り胡座を掻く。
「如何した? 座られるが良かろう」
「今夜は俺が持て成すんだ、座布団にくらい座ってくれよ」
「否良い、おぬしとは共に修行する仲間ではないか?」
「仲間……か、そう、だな」
信頼される存在でなくとも良い訳ではない。ただもう少し、夢を見てもいいじゃないか。瞑想をする傍でこっそり昼寝をしたり、修練で共に打ち合いをしたり、躰の一部でも触れ合う度、視線を交わす度高鳴る鼓動を誤魔化し、女々しいと己を呪いながらも、秘めやかに育ててきた恋慕の情は留まる所か最近目に見えて顕著に外へ出ようとする。油断すれば百面相を浮かべている事もままある。
「おぬしは背を預けるに足る、大切な仲間ぞ」
微笑む貌を見上げ、頭が真っ白になり固まる。ああ、この太刀は己の言動一つ、仕草一つでこんなにも心乱れる相手がいると知らないのだろう。今はそれでいいと思う。
「……同田貫殿?」
「! おっおう、そ、そうだな!」
もう酔いの回った様な赤ら顔が物珍しいのか、じいと見つめる山伏へぶっきらぼうに猪口を突き付け、「いいから飲もうぜ」と呟く。あからさまに話題を逸らそうとする相手をさして気にしていないのか、山伏は受け取った猪口に注がれる酒を見つめている。伏し目がちな相貌は穏やかで、揺らめく水面を見つめる目と視線が合う気がした。
ふいに膝同士が触れ、耳元に口を寄せられ囁かれる。突然距離が縮まり硬直し、眼だけを動かし紅い眼が上目に見上げてくるのを、煩い心音に躰を戦慄かせ見つめた。
「今宵の盃はおぬしとの秘密だな」
どきりと脈打った心音に気付かれない様に大きく仰け反り、辛うじて酒を零さなかったことに自分を褒め称えた。平常心など程遠い同田貫をよそに、山伏は右手に持った猪口をくっつけてくる。
「乾杯、と言うらしいぞ。月夜を肴に盃を交わすとは、なんとも風流であるなぁ」
カカカ、と普段より抑えた笑い声にすら夜霧に煌めく蝶の様な色香を孕んでいる気がして、咽喉の焼ける強い酒を一気に呷った。
小鳥の囀りを目覚しに起き上がると大きく伸びをする。掛けられた布団は自分のものではない匂いがした。朦朧とする頭を振り、転がった徳利数本に昨夜を思い出すと辺りを見回す。同田貫は居らず、几帳面に畳まれた内番着を見るに朝の鍛錬でも行っているのだろうか。そこまで思い立ち、審神者はもう発った後か、何か忘れものでもしていまいかと逡巡し布団に沈む。眠い。普段飲まぬ酒は未だ内に残り、じんわりと熱く気怠げに布団の上で身を捩る。落ちてくる瞼に抗えず、再び心地良い眠りに意識を委ねた。
「……山伏、……山伏? 居るんだろう?」
勢い良く身を起こし、障子戸の向こうの影を仰ぎ見る。声は顰められ、部屋の主は入ってこようとはしない。
「その、昨日はあんまり飲ませちまったようでよ。すまん。起きたか?」
「相すまぬ、もう皆の者は起きているだろうな。拙僧もすぐ参る故、同田貫殿も部屋に入られよ、着替えがあるだろう?」
「朝餉ならもう終わっちまって、俺達しか残ってねぇよ」
「何?!」
しまった。大分寝過ごしてしまったらしい。審神者不在の今、皆を纏める立場の己が寝坊とは情けない。山伏や同田貫の属する第一部隊は、遠征を主に熟す第二部隊らと違い審神者の指示で任を熟している、実際言い付けも第二部隊から第四部隊はいつも通り遠征だったので既に出立したのだろう、帰りは皆夕刻以降になるだろうが。
「主が居ないが今日は何をするんだろうな? お前、聞いてるか」
「広間で待機していてくれ、拙僧もすぐに参る!」
慌てて障子戸を開ければ、眼を見開いた同田貫が見上げていた。戦装束に身を包んだ同田貫と違い、山伏は寝起きの状態のままだ。身に着けた内番着はジッパーが下まで下げられ素肌を晒しており、大きめで童顔に見える黄金の瞳を顔ごと逸らし背を向けられた。無造作な漆黒の髪を乱暴に掻き、共に酔いの抜けないのか耳が赤かった。
「朝一から刺激が強ぇよ……」
「何か言ったか?」
「何も! ……手拭と桶に水を張っておいた、俺達の部屋使っていいから」
「おお忝い! む、御手杵殿は戻られなかったのか?」
片手を振り遠ざかる男へ声を投げかける、ややあってちらりと振り返った貌はほんのりと上気しており、視線を合わせず口が開く。
「俺ぁ何だか寝付けなかったんで、打ち込みにしてたら夜が明けちまった。蜻蛉切ンとこで寝てる」
「何? それはすまぬことをした、拙僧は煩かったであろうか?」
そういうんじゃねえよ、とだけ言い残すと同田貫は今度こそ遠ざかってゆく。兄弟には今まで言われた事は無かったが、鼾や歯ぎしりの一つでもしてしまったろうか。改めて謝らねば、と桶に浸した手拭で身を簡素に清め、身支度を整える。蜻蛉切は昨日から第四部隊の隊長で、一人部屋のため居ない筈。御手杵はぐっすりと寝ているだろう。頃合いを見て起こしに行こう、共に畑当番を割り当てられていたが、昨夜の謝罪と主に内番へやる気を出させる手段を考えるうち、胸元から貝殻が転げ落ちた。
「艶紅か」
自室へ戻るより早く広間へ向かう必要があると、山伏は懐から手鏡を取り出す。慣れた手付きで紅差し指で目元に、審神者から譲り受けた緋赤を一差し刷いた。身嗜みとして、内番であろうと非番であろうと、布団へ入る直前まで紅は欠かさない。癖の様なもので、目弾きがないと落ち着かなくなってしまった。
「……よし」
共に置いてあった戦装束を纏い、宝冠を結ぶとすっくと立ち上がる。上等な京紅に似た艶紅は確かに色艶が良く滑らかに乗り、精悍な目許を鮮やかに彩っていた。軽く皺を払い布団を片付け、部屋を後にした。日はすっかり昇り切り、人影のない本丸を突き進む。急がねば。山伏は知らなかった。部屋に置いた艶紅が、光も無いのに玉虫色に光を帯びるのを。
大広間には一軍として連度の高い数振りと、最近顕現したばかりの太刀が待機していた。兄弟刀二振りも居り、入ってきた山伏を見、片方が手を振り片方は黙ったまま見上げている。背後の数振りの男士は山伏を見、俄かに騒つきだした。
「すまぬ、寝過ごした」
「珍しいね兄弟、何か、あった?」
「……帯がはみ出しているぞ兄弟」
「む、何分急いでいたのでな、主よりの言伝である、静まれい」
窺う様に堀川と山姥切が長兄を視た。背後で騒ついていた数振りは、何やら皆一様に色めき立っている。山伏はそれに気付かず、もう一度声を潜め静まれい、と呟いた。続けて戦場でも本丸でも凛と響く低音が紡がれる。
「主は政府よりの召集があり不在である。本日の全ての執務は近侍である拙僧が任せられている。第一部隊の戦場への進軍は無し。第二から第四部隊までは遠征に既に発ち、残った我々が内番の任を請け負う。何か質問はないか」
騒ぐ声は止まず、腰を浮かせ始めた者もいる。寝坊したことに憤りでもあろうかと頭を下げかけるのと、山姥切の咎める声はほぼ同時だった。
「同田貫、何をしている」
掴まれ引かれた手を辿り、昨晩の細やかな宴席相手の横貌を見下ろす。存外力強く引かれ首を傾げる、一体何が起こっているのか。気付けば険しい顔をした者達が山伏と同田貫を取り囲もうとしていた。
「ここは危ない、逃げるぞ」
「む、?」
駆け出した同田貫に腕を引かれ、大広間を出る。背後で何やらいきり立った怒号やら兄弟刀らの声を聴くが、同田貫は広く長く続く廊下を走り、やがて中庭を見渡せる場所で立ち止まる。息の軽く上がった状態の山伏の肩に、同田貫は迷いながらもそっと手を触れた。
「聞いてくれ、直に奴らはお前を狙ってやってくる」
「拙僧はそんなに皆を怒らせてしまったのか……?」
困り果て眉尻を下げた山伏は見当違いの解釈をしているようだった。
「違う、あー、その、お前が」
視線が合う。夕陽の赤と月光の煌めきが交わり、打刀は口を噤む。美しく彩られた目許が妖しく色を放っていた。抑えていた箍がいとも容易く破壊される音を、同田貫は確かに聞いた。
「う、ぅ……!」
「どうした同田貫ど―……」
「山伏」
呻き声を上げ俯いた同田貫を下から覗き込もうとし、肩を勢いよく突き飛ばされた。壁に背を強かにぶつけ、一瞬息が止まる。
「ッ!」
「山伏……」
同田貫は両手を山伏の顔の横に付き、中腰の姿勢の太刀は両足の間に躰を割り込まれ完全に身動きを封じられる。高下駄の無い分身長差は埋まり、中腰なので顔が随分と近い。昨晩と同じ様に、熱い吐息が頬にかけられた。
「同田、貫、殿……?」
「俺は……俺は!!」
驚愕に見開かれた真紅の双眸が眩い輝きを放っている。腹の底から湧き上がる、憎悪にも、殺気にも似た、支配欲。抗う術を知らない衝動の獣が鎌首を擡げ、眼前の男を喰らい殺そうと牙を剥いた。美味そうに誘う唇へ、己のそれを近付ける。
「どう、」
「山伏、俺は、お前がす――……」
「させんぞ!」
襟巻が物凄い力で後ろへ引っ張られたかと思うと、突然首根っこを掴まれ躰を中に放られる。
「ぐえっ」
中庭の生垣に丁度良く落ちた同田貫が起き上がると、全く気配を感じさせずに間近で射殺す様な緑青が目深に被った布から覗いていた。
「ッ!!」
「何をしている同田貫」
「ッブラコン野郎にはあいつは渡さねぇ!」
「俺の兄弟に何をしているんだ、同田貫」
地の底から響く声は恐ろしく低く、昏く輝く緑青の双眸が、抜かれた刀身が反射した光を照り返した。反りの美しい山姥切が真っ直ぐ天へ掲げられる。
「お前がいつも自慢する兜の様にしてやろうか!」
「山姥切、やめろ!」
同田貫を放った岩融がそのまま山伏を肩に担ぎ上げ、遠ざかっていた。同田貫は葉擦れで出来た斬傷から滴る血を舐め取り、不敵に微笑んだ。
「上等だ、実践刀の頑丈さ、思い知らせてやるよ!」
「俺を写しと侮ってもらっては困る。俺とて刀としての誇りは本物だからな!」
「そうこなくっちゃなぁ!」
中庭で勃発した真剣での勝負に火花が散る様を遠くに見据え、抱えられたままの山伏は身を捻り薙刀を見上げた。
「降ろしてくれ岩融殿、二人を止めねば……!」
「奴は今まで散々抜け駆けをしていたのだ、当然の報いだろう」
「いっ岩融殿! 先程から何故皆そうやって殺気立っておるのだ!」
「皆、ぬしに魅入られたのよ」
「何……?」
何が起こっているのか理解出来ず、ふと見上げた空に浮かんだ雲が妙に歪で頭を捻る。朝、己を見る男士の視線は明らかにおかしかった。敵陣の真っ只中と変わらぬ殺気に満ち、しかし向けられるのは面妖な熱視線であった気がしたが。
「小僧どもがいきり立っておったのう、愉快ではないか」
「何を悠長なことを……降ろしてくれ、岩融殿」
どたどたと足音を鳴らしながら廊下を大股で歩く岩融がふいに立ち止まる。
「答えろ山伏。俺がどう見える? 俺のことをどう思っておるのだ?」
立て続けに投げかけられた質問の意図が汲めず、胡坐の上に降ろされ困惑の表情で岩融を見下ろし、双眸を瞬かせた。
「同じ日に顕現した同部隊の仲間という以外、俺をどう思っているのか、聞かせてもらおうか」
真剣な表情の薙刀は、いつも笑みの形を取る口を引き結び、銀朱の瞳が真っ直ぐに見上げている。
「いつもいつもはぐらされてきたのだ、俺も、我慢の限界というものがあろうよ……」
「おぬしは拙僧にとって大切な仲間であるぞ」
「山伏、知っているぞ、ぬしは全て分かっていて知らぬふりをしている」
「……カカ、何のことであろうか」
被った頭巾が落ち、額が合わせられる。岩融の熱が伝わる、拍動が分かる。銀朱に見透かされ、乾いた唇を無意識に舐めた。
音も無く背後に立つ男の影が、廊下に座り込む二振りへ影を落とした。
「お前も俺と兄弟を邪魔するのか岩融」
本丸でも一二を争う機動を誇る初期刀が息も乱さず岩融の後ろへぴったり付いていた。
「兄弟……!」
「どいつもこいつも俺と山伏を裂きたがる、どれ、待っていろよ山伏。総てを薙ぎ払い、返事を聞く」
「待て、馬鹿げておる、拙僧を賭け争っているのか? 皆、静まれい!」
兄弟刀からは血の匂いはしないし返り血も無い、怪我も無いところを見るに同田貫は一先ず無事らしい。立ち上がりかけた山伏を止めたのは、二振りほぼ同時だった。
「馬鹿げてなど無いぞ兄弟」
「左様。俺は本気だ」
分からない、殺気の籠る視線には同時に熱も含まれていて、限りなく正気を疑って掛かってしまいそうだ。山姥切は確かに普段から過剰に兄へ近付く輩に対して喧嘩を吹っかけていたが本体を抜くほどではないし、岩融が笑みを消し去るのも見ることは滅多にないというに。
「来い小僧、遊びの時間は終わりとしようぞ!」
「俺は負けない、兄弟を守るのは俺だ!」
大薙刀を片手で振り回し、風圧で山姥切の被る布が舞い上がる。隠れ身に巧く使い飛び上がった弟刀の金糸がさらりと陽光に反射した。戦いが勃発してしまえば山伏は蚊帳の外で、呆然と座っていたが肩を叩かれ、振り返った太刀を見下ろす打刀は何も言わず使われていない筈の部屋に入ると、山伏を手招いた。
「兼さん殿……?」
「大丈夫か、あんた」
心配そうに見つめる、弟刀の相棒こと和泉守が声を潜めたまま尋ねる。襖を隔てた向こうでは激しい打ち合いの音が響き、言い争う声も微かに聞こえていたが、日差しを遮られ薄暗い部屋は静かだった。
「どこか安全な場所に隠れた方がいいぜ、皆興奮してるみたいだしよ」
「そうだな、おぬしは平気なのか」
「おう、なんか良く分からんが。ところであんた、国広を見なかったか?」
和泉守の呼ぶ国広とは本丸でただ一振りだ。広間で会っただけという旨を伝えると、男は長髪を揺らし首を傾げた。
「おかしいな、途中まで一緒にいたんだが」
「途中とは?」
「おう、同田貫の旦那を簀巻きにしてる国広に会ったんだ」
そこら辺に転がってるだろうが、ついでだし探しに行くかと和泉守が呟いた。本丸で流血沙汰などということになったら、いくら手入れで治ると言っても近侍を通り越し審神者が咎められるだろう。
「同田貫殿は無事であったか」
「芋虫みたいに這ってあんたを追おうとしてたからな、凄い執念だぜ全く」
想像して軽く噴き出してしまった。修行不足だなと咳ばらいをし、打刀がこちらを見ているのに気が付いた。
「兼さん殿?」
「な、なんでもねぇ! 俺は違うぞ!」
「? 何がであるか?」
「い、いいから。……表が静かになったな、あまり同じ場所にいるのも良くない、移動しようぜ」
「応」
襖をそっと開け外を窺う和泉守の傍に寄り、隙間から覗き見る。兄弟刀も薙刀も姿は見えず、秋口の爽やかな風が吹いていた。ここで同時に疑問を口にする。爽やかな、風?
「あの黒雲、何だ? それに風なんて、ここはいじげんくーかんなんだろう?」
「気付かなんだ、あの雲は昨日、主殿の部屋の上に有ったものと同じ、今回の騒動と何やら関係があるのやもしれぬ」
「行こう、山伏……って、おい!」
「む?」
大仰に飛び上がる和泉守は顔を赤らめていた。外を覗こうと顔が近かったのに漸く気付いたのか、紺碧の涼しげな瞳を狼狽えさせ、大きく立てた音に再び飛び上がり、山伏の緋眼を、間近で見てしまった。生唾を飲み込む音が、静寂にやけに大きく響いていた。
「ッ……! 違うぞ、俺は、あ」
「兼さん、殿?」
ふとした拍子に手が触れあい、中腰の姿勢で飛び上がったために均衡を崩し。
「うお!」
「ぬぁっ」
縺れ合う様に、廊下に転がった。後ろ手に手を付いた山伏の胸に和泉守が両手と顔を埋める形になり、手慣れているようでそういったことに全くの初心である和泉守は半ば混乱していた。
「うあ、っす、すまねぇ!」
「お、落ち着かれよ兼さ、んッ……!」
「!」
柔らかく温かい、程よい弾力。掌で押し込めば反ってくる、禁欲的な修験者の装束の上からでも分かるこれは、これは、ああ。指先に引っかかり、擦れる度に山伏が震えた。唇を噛み締め、顔はうっすらと赤く染まっている。甘やかな香りを吸い込めば、鼻腔一杯に塗香が甘美な香りを醸し出し、しっとりと汗ばむ肌は健康的に焼け手に吸い付いてくるだろう、汗はこの香の様に甘いのか、どうしても知りたい。和泉守は手を、舌を、山伏へと伸ばしてゆく。
「かねさん、どの……?」
「あ、あぁ、やまぶし……!」
目尻に水を溜め、はくはくと呼吸をする己の相棒の兄刀に。
「駄目だよ兼さん」
「!」
がばりと振り返った和泉守は、穏やかに微笑む、しかし細められた目は全く笑っていない、脇差の冷たい笑みを見た。逆手に握られた脇差が翻る。
「国広!」
「酷いなぁ兼さん。僕を差し置いて山伏兄さんにそんなことしちゃうの? 僕信じてたんだよ?」
「誤解だ! 俺は違うんだ! これはその、ものの弾みだ!」
「そうであるぞ兄弟。これは事故で、兼さん殿、離れられい」
背後に桜を一瞬で舞わせ、堀川は満面の笑みを浮かべた。和泉守は両手を上げて降参の姿勢を示し、山伏はふうと息を吐く。
「そっか、兄弟がそう言うならそうなんだろうね。ごめんね兼さん」
「おうよ! 俺がお前を差し置いて……山伏、に」
「兼さん殿? っん、あ、ッ」
「兼 さ ん ?」
「うわあぁあ! 違う、これは!」
「山伏兄さん、少し部屋で待っていてくれる? 兼さんはちょっと、こっちに来ようか?」
顔に影を落とし、冷ややかな目付きが和泉守を射る。躰を凍りつかせた和泉守は堀川に片手で引き摺られ、やけに奥の暗い空き部屋へ揃って消えた。
「……」
山伏は暫し呆然と座り込んでいたが、宝冠を靡かせる風に空を見上げると、意を決し立ち上がる。この騒動の原因は恐らくあの黒雲の下にある。兎に角広く、審神者の研究の影響か時空の歪みまくった本丸は襖を開ければそこは全く離れた別の場所だとか、どこへつながるか分からない「どこかへドア」なる場所があるだとか、中には己と瓜二つの別の存在が夜中徘徊しているだとか都市伝説めいたものも存在する始末だ。他はともかく最後のはダブった男士であるだろうが、噂好きの一部の男士が話題を振り、尾鰭が付き拡散されていくのを知っていたため、山伏は気付かなかった。音も無く開けられた背後の襖から忍び寄る影に。
「山伏の」
「ぬおっ!」
耳元に息を吹きかけられゾクリと背筋を這うものを感じた。勢い良く振り返った山伏は、昼間だというのに三日月を双つ見た。
「三日月殿!」
「これは驚かせてしまったな」
すまぬなと、白尽くめの太刀の様な事を言い朗らかに笑う男は、最近やっと鍛刀で喚ばれた天下五剣と呼ばれるそれは美しい刀だった。
「何やら騒がしいが、何かあったのか?」
「うむ、話すと長くなるのだが……」
「そうか、ならば、付いてくるが良い、山伏の」
優雅に微笑み、桜舞う様を幻視する程雅な仕草で手招きする。見ると、奥は大広間へと繋がっており、本丸の噂を一つ体感するのだった。
「俺は内番かと思い着替えて戻れば大広間には誰も居らなんだ、ついにこのじじいも呆けてしまったのかと思ったぞ」
「何を言う、三日月殿は強く美しくおられるではないか」
「嬉しいことを言ってくれるな。山伏の。もっと近う寄れ」
刀身と同じく華美な装飾を揺らし、いつの間に出したのか扇で口元を覆い三日月は笑いながら手招く。大人しく隣へ腰かけると、漆器に乗せられた饅頭が二つ差し伸べられる。
「朝餉を食うてなかったろう、腹が空いているのではないか」
「む、そういや忘れておったな、カカカ、有難い、頂くとしようぞ」
「遠慮はいらんぞ」
山伏は両手を合わせ、正座に座りなおすと行儀正しく「いただきます」と告げ、饅頭を頬張った。
「うむ、美味であるな! 餡も程好い甘みで舌触りも良い、これは三日月殿が?」
「知らぬ、厨からかっぱらってきた」
「うぐ、それは……後で拙僧怒られるやもしれぬな」
「ははは、その時は俺も共に仕置きを受けよう」
饅頭を二つとも平らげ、出された茶も飲み干し、山伏は大分落ち着くのを感じていた。饅頭の甘さを旨味の茶が押し流し、暖かさがじんわりと腹へ下る。
「それで、何があった?」
「うむ、何かこの本丸で良くない気で溢れているのだ、何ゆえか皆、喧嘩を始めている」
「ほう?」
「その上皆一様に拙僧を―……三日月殿?」
「どうした?」
腰へ伸びた手が、明らかなる目的を持って撫でまわされている。
「その、手が……三日月殿、」
「宗近と呼んでくれないか」
美しい微笑みが近付いてくる。双つの三日月が妖しく光り、腕の中の男は魅了されされるがままとなっていた。
「三日月、殿……?」
「中々しぶといな」
「あ、っ」
「じじいの戯れだと思うてくれるなよ、山伏の。……俺のことは宗近と」
力の入れられない躰を押し倒され、組み敷く男を見上げるが、月の男は変わらず微笑みを湛え、言霊を含ませた声が頭に直接語り掛けてくるのを感じた。抗えない、指先一つ動かせないまま、慣れた手付きで装束を脱がされ、隆起する胸を、躰中を這う焔をなぞられ、意識すら浚われそうなのを必死に耐えていた。
男と刀派を同じくする岩融の言葉が脳裏に蘇る。そうだ、己は分かっていた。最初の同田貫こそ面食らったが、もうずっと前から彼らからの恋慕は気付いていたし、はぐらかし続けていた。気付かない振りをしていた。その方が楽だからだ。
「む―……」
何故なら己は同性で、刀で、付喪神だからだ。本体が手折られれば意識は何処かへ、泡沫の様に消えてしまうだろう。特定の相手を懸想し恋仲になれば、戦場で余計な隙が生じる。
「山伏国広」
「あ、……」
何より修行中の身、肉欲に溺れることなど、あってはならぬ。父より与えられし名を、信条を、己の内に宿し生まれたのだから。身に刻まれた焔は迷える者を照らす標でなくてはならない、背負う救済の焔は、皆に等しく降り注がれるべきなのだと。
頬を包み込む手は冷たくも暖かく、酷く心地の良い波が、山伏を今にも浚わんとしていた。
「宗……ち、」
その時、欠伸を噛み殺した能天気な声が程近くから聞こえた。この本丸に残った刀剣は今朝大広間にいた数振りだけの筈。咄嗟に術を解き離れた三日月の視線を追い、戸口に立った長身の青年を見た。
「おはよう、何だあんたらだけか?」
ひらひらと手を振る御手杵は口を欠伸の形のまま間延びした声を出し、大股で近付いてくる。
「なぁ聞いてくれよ、たぬきがさぁ、調べものしてくれたら手合わせ一回譲るって言うもんだから蝋燭の明かりだけで蔵の中探し回って帰ったら酒で真っ赤な顔して、眠れねぇから打ち合いしろって言ってきたんだよ。明け方まで付き合わされてそりゃ楽しいけど眠かったからじゃあ寝てろって言われて、起きたら誰も居なくてさ。ああ、腹減った」
「そ、そうか、それは大変だったな」
「本当だよな、おー、三日月のじいさん、俺ちょっと山伏と厨で食い物漁ってくるから、外で伸びてる連中起こして先に内番しててくれないか」
「何? おい待て、俺は未だ―……」
「頼むよ、な?」
片目を瞑り、返事も聞かず山伏を軽々と片手で引き上げると、御手杵は困惑し疑問符を浮かべた太刀の背を押し大広間を去っていった。
「……思わぬ伏兵がいたか。まぁ良い、時間はたっぷりあるからな」
残された三日月は独り言ち、楽しそうに笑う。顕現した時のことが唐突に思い出された。狂喜乱舞する年若い人間の男と、快活に笑い出迎えた精悍な付喪神の美しい微笑みを、差し出された手の温もりを、いずれ必ず手に入れる。障壁となる者が何人あろうと、このじじいを出し抜けると思うなよと、音も無く自室に消えた。
ある程度離れたことで術が完全に潰えたのか、山伏は詰めていた息と共に躰を弛緩させ、腰を砕き廊下へ頽れた。
「~~っはぁ……」
「大丈夫か、山伏」
「あぁ……助かった、礼を言うぞ、御手杵殿……」
拙僧危うく操を散らすところであったと呟き、しゃがみ込んだ御手杵へ笑いかけた。あの瞬間、覚悟をしていた。三条派と言えば遠く平安の付喪神だ、神格の低級な同属を隠すことなど容易であったろう、事実その直前まで追い込まれた訳であるから、天下五剣の名は伊達ではないのだろう。
「俺は何もしてねぇよ、眠気覚ましに片っ端から手合わせされたのかと思ったが、どうやら違うみたいだな」
「それなのだが、御手杵殿は影響はないのか?」
「んあ? 影響って何がだ?」
「うむ、無いのであれば良いのだ、皆もじき正気に戻ろう」
差し出された手を取り立ち上がろうと力を入れるが、どうやら腰が抜けたのか躰が動かない。情けない。まったくもって情けない。これは近々、主に山籠もり許可証を発行してもらう必要がありそうだ。
「大丈夫か? 腹減ったのは本当なんだ、その状態のあんた残していくのも悪いし、そうだな、こう、すれば!」
「ぬ、ぅ?」
ひょいと横抱きされ、派手な者の多い本丸で地味やら一般人やら形容されるがその実整った双眸が近付く。余りの勢いに、浮かび上がった躰は多少鍛えており重量のある筈なのだが、と首に腕を巻き付け縋りながら思う。常日頃槍を軽々と振り回す槍は二振りとも屈強であるのだなと、山伏は御手杵の横顔を見上げながら思う。
「お、重くないのか」
「何、鞘に比べりゃ軽いもんさ。それより、つまみ食いすること、黙っててくれるよな?」
悪戯好きな子供の様な笑みは人懐こい大型犬を思わせ、山伏は苦笑しながら頷いた。中々に恥ずかしい格好だが、今は大人しく甘えさせてもらおう。
「ふーん、そりゃ災難だったなぁ」
「分からぬのは、本丸に浮かんだ面妖な黒雲の謎である。主殿に贈られた艶紅があるがもしやそれであろうか……?」
厨で二人分残されていた朝餉を綺麗に平らげ、頬杖を付き御手杵が嘆息する。山伏の話は俄かには信じがたいが、血気迫る様相の仲間を思い出し、どうせまたあの変人が原因だろうなと空を見上げた槍が何かに気付く。
「黒雲? ん、おいありゃあ、俺たちの部屋んところじゃねぇかな?」
「何?! 往くぞ御手杵殿、皆の起きる前に!」
「あーおい、待てって、まだでざーとがぁ……」
「後で拙僧のをやるから!」
「本当か! よし行こう!」
同田貫と御手杵の寝室にはあの艶紅があった筈だ。審神者の発明品によるものなら話が早い、一刻も早く効力を消すために、元を絶たねば。山伏の言葉に元気を取り戻ししゃんと立ち上がった御手杵は尻尾を振っている様に見えた。やれやれ、これでは飼い主と懐く大型犬ではないか。辺りを窺いながら廊下を並んで進み、歩みを止めずに御手杵が口を開く。
「にしても、惚れ薬ってか? 訳分からない効果であんたに迫るなんて、俺だったらゾッとする」
「……というと?」
「だってそうだろう? あんたを奪い合って、あんたを手に入れても、それは自分で手に入れたことにならない。第一無理やり奪ったところで、あんたの心を汚しちまうだけだろ」
山伏は己に向けられる好意が増幅され、歪んだ結果だとだけ話していた。事実明確に懸想しているのは同田貫と岩融の二振りだけであり、歪曲された衝動が今回の要因であると思っていたからだ。しかし御手杵は気付いていた、山伏の話を聞くうちに、山伏の抱える葛藤に、それを利用した今回の事件の真相に近付きつつあった。
「御手杵殿、それ、は」
「今回ばかりは主を許せないな、俺は。あんたを傷付けることになってたかもしれないんだ。俺は、正々堂々と勝負したい。無理やり振り向かせるんじゃなくてさ」
胸が苦しい、全力で走ったように息は詰まり、立ち止まってしまう。惚れ薬の効力が薄い訳ではなかったのだ、この御手杵という槍は。心配そうに駆け寄り背を摩る大きな手の温もりに、身を委ねてしまえたら。だが、大分近付いていた黒雲から突如、青い稲妻が落ちてきてそして。
「うわぁあ!!」
「御手杵殿?!」
閃光に貫かれ、黒焦げになった槍がばたりと倒れた。悲痛な叫び声をあげ山伏が手を伸ばし、燻る躰へ触れるとそこには黒い影があった。
「! お、てぎね……殿?」
茶の毛並みを持つ、大型の犬が横たわっている。怪我はないようで、伏せたまま動かないが、優しそうな黒橡の双眸は間違いなく御手杵と同じであった。どこかで時空の開かれる音の後、審神者が山伏へ歩み寄っていた。
「やぁ山伏、ただいま帰ったぞ! 以前の開発は残念ながら特許が下りなかったが、おかしいよな、こうして動物の姿に変えられるの、に、」
「あるじ、どの……!」
「どうした山伏? ああ、あの紅を差してくれたんだな、どうだ、凄いだろう? 究極の惚れ薬だ、ほんの少しでも好意があれば、それを大幅に増幅させる効果があってだな。まだ人に効果はないが。どうだった? まあ体験しただろうが今後の研究のために感想を」
揺らめく焔が、視えた気がした。
「いい加減にしろよ主殿」
「!」
背負う焔は煩悩を焼き尽くし、天地眼は血の様に赤く、山伏は沸々と血潮が煮え滾るのを感じていた。
「お前口調違くない……?」
「拙僧も未熟であるな……今や平常心には程遠い!」
「ひょえーっ!」
山伏が一歩審神者へ近付くごとに、背から焔が噴き出た。憤怒の焔を背負い歩み寄る太刀は恐ろしい程の無表情で、生半可な精神の者なら気絶しそうな殺気を放っている。
「人の純粋な行為すら利用して弄ぶなど、烏滸がましいとは思わぬか?」
「ゆ、許してくれ、悪かった、お前はよく好かれているから実験には丁度いいと思って」
「反省の念が見られぬようだなぁ主殿?」
「ヒッ!」
眼前まで迫る紅蓮が、煩悩ごと魂まで焼き尽くさんと轟々と燃え上っていた。審神者の情けない声が、本丸中に響き渡った。
「ごめんなさぁああい!」
後始末の全てを審神者は自主的に引き受け、本丸の修繕に奔走した。生き甲斐とも呼べる研究は数週間に渡り近侍より許可が下りず、自棄になった審神者は演練の悪魔として高練度帯に君臨することとなる。
「兄弟を怒らせてはならないと散々言っただろうが。少しは反省しろ」
書類の山を泣きながら熟す審神者を余所に、ちゃぶ台に茶菓子と茶を揃え、堀川派の三振りが茶会を開いていた。冷めた目で審神者を見、団子を咥えながら初期刀がこれみよがしに言い放つ。
「だから、そう、言っただろ」
「まぁそろそろ許してあげてもいいかもしれないけど。滅多に怒らない人ほど怖いって本当だよね」
きらきらと純真な笑顔で堀川が続く。その実目は笑っていないのを知る山姥切は黙って茶を啜った。
「兄弟を怒らせて無事だったのはあんたで二人目だな」
「へー、その一人ってお前だろ、まんば」
「妙な略し方をするんじゃない! あと兄弟から離れろ!」
「山伏は嫌がってないからいいんだよ。な!」
山伏の前に置かれた団子を頬張り、御手杵がへらりと笑う。癖の強い髪をゆっくりと撫でながら近侍が頷いた。
「ご名答であるぞ、御手杵殿。しかしな、拙僧、ちょびっとイラッとしただけで怒ったわけではないのである」
「……は?」
御手杵以外の全員が残らず近侍の言葉に固まった。山伏を後ろから抱き抱え、頬を摺り寄せる槍はそれは幸せそうな笑顔であった。それにつられ、太刀もまた破顔した。
本丸に新たな噂が出来た。それは、近侍を決して怒らせてはならないということと、その近侍に懐く、大型犬がいるというものだった。