top of page

誘惑


 戦場以外でこの男が笑うのを初めて見たと、後にその太刀は語った。

赤と熱
 
 何とは無しに雑談をぽつぽつと交わしていた。残暑の合間、恵みの雨と呼ぶには長引く黒雲が居座り、夏の歌い手息顰める申の刻。
 間延びした気だるげな声が、手櫛で身繕う三条が狐へ寄越される。なぁおい、聞いてんのか。
「どうせ乱れちまうもんを整えても仕方無ぇだろうに」
「狸と違い小狐は身嗜みを大切にするのでな」
「ああそうかい」
 嘆息と心底興味のなさ気な声色は不機嫌さを露ほども隠さず、しかし余程暇過ぎて場を立ち去る気もないらしく、同田貫が綺麗に色の抜けた銀糸を一房手に取った。
「しかしあんたらも見事な髪だよな」
「主さま以外で褒めても何も出ぬぞ」
 瞑目した僧や戦を嫌う太刀らを思い出しているのか、がしがしと己の無造作な黒髪を掻き何事か呟く。
「その主から聞いたが、外見の自由っつか、個体差?  っての、あるらしいな」
 先日政府の発表した、本丸ごとの男士らの微妙についてかと小狐丸は団子を咥えたまま傍らへと視線を移す。
「他人の事をとやかく言えた義理じゃねえが、自分と同じってのに違う相手ってのぁ、奇妙な話だよなぁ」
 今日の狸は饒舌だと、ある種の違和感を持ち見つめてみる。何か伝えたいのか、こちらを促しているのか。戦場へは雨で出陣を見合わせており、審神者が行ったことといえば日課の鍛刀を除けばーー。
「……演練で思うことでもあったのか?」
「そうなんだよ!  相手の大将がなーー」
 此奴は話を振るのが苦手なのだろう。声は若干分かりやすく上擦り、団子も半分手を付けないまま血色の悪い相貌が近付いた。
 曰く、その演練相手の男士は皆一様に打刀が太刀連中より背が高かったのだという。
「下駄履いたあっちの山伏よりあっちの俺の方が大きかったんだぞ」
 此方側と違うものといえば、今現在短刀のみに現れる「極」が多かったことくらいだという。極を数振り顕現し続けられる霊力が審神者にあればと、ただの過程を大真面目に告げた。
「俺も極んなったら御手杵の野郎とか、あんたより大っきくなりてぇなぁ」
 あぁでも、と一旦口を閉ざすと態とらしく周囲へ視線を巡らし一言。
「俺のアレは自慢でな、太さなら負けねぇよ」
 アレとはナニか、流石に本丸の新入りと同時に人に馴れぬ付喪神と言えど何となく察せた。うっかり視線を落としかけ止まる。
「風呂場で見たりすんだろうが?  男としては自分の第二の刀みてぇなモンだろ」
「……まあ、そ、そうかもな」
「あ?  どうしたんだよまさかお前ェ……短小か?」
 小狐丸が躰ごと、首を傾げる打刀から視線を反らす。何故ならば、勝手に納得し「男としては辛ェよなぁ。心配すんな、黙っといてやるよ」と慰め頷く同田貫の、向こうから近付く影に動物的第六感で忌避するためであり。
 ぽん、と肩へ添えられる手より伸びるは清浄な焔。
「……同田貫?」
「ッ……⁉︎」
「……小狐殿に何をいらぬ知識を植え付けておるのだこのばか田貫!」
 憤怒の形相で同田貫を怒鳴ったのは近侍にして小狐丸の教育係、山伏国広が一振りだった。
「地獄耳め」
「時に同田貫、我が兄弟に背を抜かれたそうだが」
 にったりと笑みながら元太刀へ一転囁きかける山伏に、既に見慣れた光景と小狐丸は団子を咥えこっそり離れた。小言を漏らす同田貫とそれを叱る近侍とは毎日小競り合いが続き、周りの者も審神者でさえも日常茶飯事と飛び交う怒号へも見て見ぬ振り、よもや仲の悪い筈も無いのにと新入りは訝しむ。戦場においての二振りの息の合う太刀筋は、互いを知り尽くし信頼しているが故の動きだったからだ。
「……それ地味に気にしてんだけど」
「山姥切は成長期であるからな、カカカ、何処ぞのチビ助とは違うぞ」
 いつもであれば同田貫が吠えるのだが、一瞬俯いた後ニヤついた笑みの張り付いているのを見下ろし山伏がたじろいだ。小狐丸はといえばこっそり横目で窺いつつ耳を欹てている。
「あ、そんな事言っていいのかぁ?  俺ァ主から『誉勲章』を授かったンだぜ?」
「なっ、何⁉︎」
 誉勲章とは、月間で一番誉を勝ち取った一振りへと与えられる要は『何でもおねだり権』だ。駄菓子をたらふくだとか、内番一月免除だとか、おかずリクエストだとか、軽いご褒美程度の我が儘を許される名誉の勲章であり、近侍を任せられて以来山籠りを禁じられ久しい山伏にとっては喉から手が出る程欲しいものに違いない。
「……何が望みだ」
 悔しげに両膝を床へ着き大人しくなった男を満足に眺め、そうだなぁと勿体ぶりながら小狐丸を一瞥、意地の悪い笑み。弧を描く薄い唇からまろび出たのは予想外な提案であった。少なくとも小狐丸にとっては、何故にその条件であるのか俄かには理解が出来なかった。
「主へのお前の山籠もり許可の進言の代わりに、俺をその気にさせてみろ」
 広い背は微動だにせず、山伏の表情は分からない。意味不明であると、呆れ貌をしていると思ったが、どうやら違っていた様だった。
「ッ……こちらが断れぬと知ってのその条件か、そんなもので拙僧が……」
「嫌なら俺の願いだけを叶えてもらうだけだな」
 その時小狐丸は、所謂本能で悟る。この禁欲を絵に描いた様な近侍は今まで他の者の授かるおねだりに便乗することはなかったのだろう、真面目が故、実際細かな願いは叶えられていると知っていて本丸を第一にと言い出さなかったのだろうことを。歯軋りする程歯を噛み締め、ちらり、と背後を振り返る。その顔色は何故か微かに上気していた。
「せ、せめてここではない何処かで……」
「駄目だ。なぁ小狐丸サンよ、よォく見とけよ」
「……?」
 脳内に占める何度めかの疑問符が静かに溜飲を下す。はぁ、と大きく嘆息した後、山伏はやおら装束を肌蹴始めた。色濃く浮かぶ背の迦楼羅が流動してみせた様に錯覚する。
 息が止まる。山伏の鍛え上げられた肢体が刹那噎せ返る程の色香を持ちしなったと思うと、同田貫の胡座へ擦り寄り抱き付いた。濡れた赤い瞳が婀娜めいて色を放ち、羞恥を残しながら甘えた声が、薄っすらと赤みを帯びた唇を突いて出た。泣き腫らした後の様に赤く差した頬を、同田貫の節くれ立った掌が滑る。
「正国……ッ」
「こいつァ、俺のモンだからな。奪おうとする奴は主だろうと叩き斬ってやる」
「正国……ど、どうか、拙僧の――拙僧の、疼く秘所を……おまえので満たしてくれ……」
「……くく、よく言えたじゃねぇか」
 双月が細められている。それなのに、その男の大きく開いた口元はまるで獲物の首筋に牙を突き立んとする瞬間の様に、ギラつく刃を見せつけていた。小狐丸の感じたのは畏怖ではない。しかし得体の知れないものを覗き込んでしまったのかもしれないと、すっかり冷えた湯飲みに雨粒が混じるのにも気付かず、二振りが薄暗い本丸の何処かへ消えてゆくのを眺めていた。

bottom of page